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#673 常識はキリストを生ぜず、常見は釈迦を成さず

それでは今日も森鷗外の「早稲田文学の没理想」を読んでいきたいと思います。

評論の定石でいくなら、相手の言い分(#670#671)、まわりの評価(#672)ときたら、次はいよいよ自分の言い分がくるところですね。

こゝに烏有[ウイウ]先生といふ談理家ありけり。理を談ずることを旨とする一大文学雑誌を発行せむとおもへども未だ果さず。烏有先生は何故に談理家となりぬるか。曰く記実に慊[アキタ]らでなり。烏有先生は何故に記実にあきたらざるか。曰く万有と万念と一に帰せしむべきことをおもひてなり。造化の無理性にしてまた有理性なるを思議してなり。その言にいへらく。物に逢ひて美を感じ、物を造りて美をなす。是れ評者と作者の境界なり、文学の境界なり。美はこれを拆[サ]いて繁き意義となし、これを統べて深き考思となすべし。

「烏有」とは「烏[イズク]んぞ有らんや」で、「全くないこと・何も存在しないこと」という意味です。つまり、鷗外は、烏有先生っていう架空の人物を突然登場させているんですよ!

羅馬[ロオマ]なる聖彼得寺[サントペエトル]塔を観てミケランジエロが作りし雛形の美に驚くは、建築を視る眼あるものゝ皆能くするところなるべし。これを美なりと記さば、記実者の役済むべけれど、談理者はそれにて足れりとすべからず。かの佛朗西[フランス]人それがしが如く、高等静論[スタチック]の算法によりて古人が不用意にして静性[スタビリテエト]の極処に至れるを看破してこそ、その美なる所以を知るべきなれ。ライプニツツが楽調の美を知るを無意識中の算術といひしもおなじ談理の境なり、若し美の義[ココロ]を砕いて理に入る[ダス ローギッシェ]ことあらずは、審美学は起らざるべし。まだ巨人島を見ざるガリワルが実を知ることの小なるはまことにをかしかるべけれど、いまだ理に通ぜざるために論理[ロギック]をあやまりたる批評をなす人あらば、これも可笑しからむ。逍遙子が記実の文を読むには、大帰納力を具へざるべからず。烏有先生が談理の言を聞くには、当りまへの理解力を備ふるのみにて足れり。

やばい…むずかしい…w

烏有先生は逍遙子が常識を貴むを聞きて、これを難じていはく。シヤフツベリイが内官論はふりたり。リイドが常識も今の哲学の程度より見るときは、おそらくは取るに足らざるべし。蓋常識は凡識と相隣せり。変を斥[シリゾ]くるはよけれど、非凡を容れざるはわるかるべし。国利民福をもとむる便[タツキ]を知らむとならば、政治家として常識を説きても善かるべく、経済家として常見を唱へても善かるべけれど、常識は基督[キリスト]を生ぜず、常見は釈迦[シャカ]を成さず、「コンモン、センス」の間には一個の大詩人を着くべきところだにあらざるべしと。

ということで、この続きは…

また明日、近代でお会いしましょう!

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