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#816 巫女の霊は、理想詩人の人間の如し

それでは今日も坪内逍遥の『梓神子』を読んでいきたいと思います。

近頃、「おのれ」は恐ろしい夢にうなされます。名医を招き薬を服しますが効果がありません。怒りを家人にぶつけてしまうこともあります。家人は、卜者に占わせて病状をあてさせてみては?と勧めます。占わせてみると、卜者は眉をひそめて、数多の怨霊に取りつかれているといいます。祈禱に着手する前に神子をたずね、怨霊の口寄せをしたほうがいいと言います。家に帰り、人を四方に走らせ、神子を探します。

神子の名は禁ぜられたるも、其実体はあるべし、と斯う思へばなりけり。我れ此時[コノトキ]に方[アタ]り、巫[フ]を信じ鬼[キ]に佞[ネイ]するとの智士[チシ]の耻[ハジ]たるを知らざりしにあらず、然れども未だ證[ショウ]すること能はざりしが故にや、むね/\しく口実を作りて辨[ワキマ]へて曰く、夫れ軽々しく信ずること元より非[ヒ]なり、然れども軽々しく排[シリゾ]くること亦更[マタサラ]に非[ヒ]なり。我れ此[カ]くの如く聞けり、愚人の疑[ウタガイ]は轉無明[ウタタムミョウ]を長じ、智者の疑は遂に菩提を成[ジョウ]す。学者の信は唯[タダ]妄中[モウチュウ]の智を得[エ]、道人の信は能[ヨ]く智中[チチュウ]の智を得[ウ]るとかや。夫れ未だ神子の何たるを明[アキラ]めず排[シリゾ]けんは疑不及也[ギフキュウナリ]。果たして信ずるに足[タラ]ざるかあらぬかは、面前[マノアタリ]彼を試したらん後[ノチ]なるべきなり。我の彼を訪[ト]ふや、彼を妄信するがための故[ユエ]にあらず、学問の為に研究の緒[イトグチ]を開かんとするのみ。何の非[アシ]きことかあらん。思ふに彼[カ]の巫[フ]といふもの、尠[スクナ]くとも人の胸懐[ムネノウチ]を読破せんと試むる者ならん。さすれば是れ機[キ]に臨み人に應[オウ]じて自家[ジカ]が想像憶測する所を語るものか、所謂生口[イキグチ]と死口[シニグチ]とは、恐らくは彼が理想中の死霊、生霊の言[コト]ならん。よりて思ふに、巫[フ]の霊[リョウ]に於けるは猶ほ理想詩人の人間に於けるが如くならん。

ここで、神子の口寄せにおける「霊」と理想詩人が描く「人間」を、なぜか突然、絡めてきましたね。「没理想論争」前哨戦の材料となるべき匂いが、ほんのり漂ってきましたよ!

ということで、この続きは…

また明日、近代でお会いしましょう!

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