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#987 「対象」によって「位置」が変わる「個人」の「資格」

それでは今日も、鷗外の「早稲田文学の後没理想」を、途中ですが振り返っていきたいと思います。

没理想論争は、「対象」によって「位置」が変わる「個人」の「資格」、つまり「自己同一性」にかかわる問題へと進んでいきます。

まず、逍遥は「雅俗折衷之助が軍配」でこんなことを言います。

将軍は三重に逍遥を誤解したり『早稲田文学』なる「時文評論」に於て吾人と名宣りて、記実と、報道と、批評とをものする逍遥といふ雑誌記者と、一個の文人として、當世に対する坪内逍遥とを混同したる、之れを第一の誤解とす。(此の別明かならざりしか、否か、乞ふ早稲田文学、第一號以下に就きて見られよ)。さはれ、此くの如き誤は、資格を分かつことを重んぜざる當世の習ひなり、思ふに、此の段は将軍の誤解といはんよりも、むしろ資格を分かてる由を断らざるわが抜目なりといひつべし。我れ敢て此の點について、将軍を責むるものにあらず。
さて其の次ぎには、無限の欲を持して絶対の研窮に心を寄せんとする逍遥と、有限の欲を持して當世に處せんとする逍遥とを、全くわいだめなく見倣されたり、之れを第二の誤解とす。さりながら此くの如きも、尚強ちに無理なりとは申すまじ、ひとり彼の絶対に対する逍遥と、吾人と名宣れる逍遥とを、つゆわいだめなく混同して(第三の誤解)わが齟齬せざるを齟齬なりと誣倣[シイナ]し、わが矛盾ならざるを矛盾なりと詰責し、逆[サカサマ]に論を搆へられたるは、論理にいと精[クワシ]き将軍が軍配としては(たとへ敵智の妙算としては服すといふとも)、少しく理[ワリ]なしと感ぜざるを得ず。(#931参照)

これに対して鷗外は答えます。

鴎外は個人たる逍遙と時文評論記者とを混ぜり。これを第一誤解とす。鴎外は絶對に對する逍遙と一種の對相對主義を奉ずる逍遙とを混ぜり。これを第二誤解とす。鴎外は吾人と名乘り出でたる時文評論記者と絶對に對する逍遙とを混ぜり。これを第三の誤解とす。(#976参照)

われは先づ逍遙子の具足したるくさ/″\の資格を審査せむ。逍遙子の個人たるや、その肚裏に絶對に對する沒理想(實は哲學上若くは形而上論上無所見)とシエクスピイヤが戲曲に對する沒理想(實は作者の哲學上所見の沒却)とを蓄へたり。逍遙子の時文評論記者たるや、現世の相對に對する腹稿の主義を蓄へたり。(#976参照)

で、鷗外は、逍遥が提示した「誤解」と、自身で分類した「資格」を組み立てなおして総括します。

こゝに逍遙子の諸資格を總括するときは。第一、兩種の沒理想を奉ずる個人逍遙。第二、腹稿主義を奉ずる個人逍遙、第三、腹稿主義を奉ずる早稻田文學記者たる逍遙。以上おほよそ三種とす。いでや、これより上に列擧せられたる三種の誤解といふものを辨じ試みむ。(#976参照)

ということで、この三種の誤解を弁じ試みるのですが……

この続きは、また明日、近代でお会いしましょう!

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