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目に見える世界がすべてじゃない。むしろ、見ていない景色にこそ、広大な世界が広がっているから、思い込みは禁物。『デタラメだもの』

年齢を重ねれば重ねるほど、知っている世界がすべてだと思いこんでしまいがちだ。世界は自分が見ているフォルムで形成されていると思い込み、それ以外の世界はインターネットやテレビの中だけの出来事。そう錯覚してしまう。

広告の仕事をしていると、インターネット上にスポンサーが希望する広告を配信するお手伝いをしたりもする。インターネットとは凄まじいもので、広告が何回閲覧されただとか、何回クリックされただとかが、詳細に記録される。お手伝いする側としても、勝ち負けがハッキリと出る、ジビアな世界だ。

そんな折、ふと思う。「こんなマニアックな広告、誰がクリックするのだろうか?」と心配になる類の広告でも、日本の誰かはそれを検索し、そしてクリックする。想像を遥かに超えるほど多くの人が、広告をクリックするケースだってある。

「こんな商品、誰が興味あるのん?」と思ってしまう広告でも、やはり誰かはそれに興味を示し、クリックする。スポンサーの思惑通りにコトが運べば、無事その商品は購入されるに至る。

そこで思うわけだ。「こんな商品、誰が興味あるのん?」と思っているのはあくまで主観、自分の考え、己の思い込み、イメージ、想像、決めつけ。日本も広ければ世界も広い。己の思い込みに収まってしまうほど、地球はちっぽけじゃない。そう、その商品に興味を示さないマイノリティは、自分のほうかもしれないわけだ。いやん。辱めやん。

その昔、中学生の頃だったと思う。今でも多大な人気を集めるB’zというロックデュオを好んで聴いていた時期があった。彼らはデビューしてからというもの、ヒット曲を連発し、瞬く間に音楽シーンのトップの座を掴み取った。

リリースする楽曲はオリコンチャート1位を連発。シングルだろうがアルバムだろうがベストアルバムだろうが、容赦なく1位を獲得していった。ライブチケットの入手は困難で、ファンクラブに入らないとチケットが取れないのは当たり前。名実ともに、日本の音楽シーンの頂に君臨していた。

そんなある日、不思議なことに気づいた。それは、周囲にB’zファンを自称する人がいない、ということに。大阪という街で生まれ育ち、比較的中心部に位置する場所を根城にしていたため、人口が少ないからとか、若者が少ないからとか、そういった理由でないのは明白だ。じゃあなぜ、日常生活を送っているなかで、B’zファンに出会うことも、目にすることもなかったのだろうか?

B’zファンだと世間に知られると、何らかの罰則を受けてしまうのかとか、江戸幕府が禁教令を布告してキリスト教を弾圧したように、B’zファンを名乗ると弾圧を受けてしまうため、世間ではそれをひた隠しにして生きねばならないなど、逼迫した事情があるのかもしれない、とさえ思っていた。

だって、日本でトップに君臨するミュージシャンやで。CDショップにはCDがズラリ。ポスターもあちこちに。楽曲をリリースすれば音楽番組にだって顔を出す。ミリオンセラーも連発してるんだぜ。ミリオンセラーって、100万以上のCDを売ってのける偉業だぜ。周囲にゴロゴロとB’zファンがいてもおかしくないよね。あまりにも不可解過ぎる。解せん。

しかし、大人になった今ならわかる。当時はB’zを通してしか日本を見ていなかったが、日本を通してB’zを見てみると、中学生という幼い男子が考える"周囲という範囲"にまで浸透するほど、国民的支持は得られていなかったということ。B’zを通してしか世界を見られない未熟者だったというわけだ。日本の広さ、人口の多さを見くびっていたんだね。しょんぼし。

それはそうと、こんな会話をした経験はないだろうか。「最近、タレントの○○って見ないよねぇ」とか、「○○ってタレント、消えたねぇ」とか。多くの人が、友人知人と、この手の会話をしたことがあるはずだ。

しかし、ここにも落とし穴はある。そう。あなたがそう感じる原因は、あなたが好んで見る番組に出ていないだけの可能性もあれば、あなたがテレビを視聴する時間帯の番組に出ていないだけの可能性もある。

もっというと、そのタレントが活動の場をキー局(番組放送におけるネットワーク・系列の中心となる放送局)から、ローカル局に移しただけかもしれない。大阪でテレビを見ているとその姿を見ないが、東京出張の折にテレビをつけてみると、お目にかかれるケースなんてのもある。

さらには、舞台を中心に活動したり、執筆業に力を注ぎ、雑誌で連載を持っていたり、電波に乗らない場所で活躍しているケースだって考えられる。近頃じゃ、インターネットを主戦場にするタレントだって増えているのが事実。

テレビを通して世界を見ていると、そのタレントの姿を捉えることができないかもしれないが、視野をグワワと広げてみると、存在が消えてしまうどころか、活躍の場をさらに広げていることに気づくかもしれない。

そうなんです。世界は目に見える範囲だけで形成されているわけじゃない。見えている範囲だけを世界だと思い込んでしまっている可能性もある、ということですねん。

「最近、このCMをよく目にするなぁ」それは、偏った時間帯や似たような趣味趣向の番組を見ていれば、スポンサーがターゲットとする消費者像も近しいものになるため、同じCMをよく目にするのも当然のこと。

昼間の主婦をターゲットにしたCMが深夜に流れることは稀なわけで、それまで昼間中心でテレビを見ていた人が、急にライフサイクルを深夜に切り替えれば、それまで見ていたCMを目にすることはなくなってしまう。

自分を中心に考えれば考えるほど、B’zは周囲の誰もが知っているべきだし、見なくなったタレントは業界から干されたと信じて疑わないだろうし、目にするCMにも偏りがあると感じてしまう。しかし、日本は広い。人口も多い。そして、世界はもっともっと広い。ただ単に、それを見ていないだけで、見ていない部分に未知なる世界は広がっている。

自分事として考えてみると、お笑いの街・大阪に住んでいるもんだから、テレビで芸人の姿を見ない日はなかった。テレビのモニタに映っている世界がすべてだと思っていたからこそ、大阪の芸人は日本中の人気者だと信じ切っていた。

しかし、東京に出かける際などに、そういった類の話を持ち出してみると、東京では誰ひとりとして、大阪の有名番組で活躍する芸人の名を知る人間はいなかった。なぜなら、大阪の有名番組は、ローカル局でのみ放送される番組。東京の人は見られないんだもの。知るわけもないよね。誰の名を出しても話が通じないことに多大なショックを受け、呆然としたまま歩道橋の上に佇み、2時間ばかり大通りを走る車の様子を眺めていた記憶は今もまだ消えやしない。

目に映る景色がすべてじゃない。見ていない部分にこそ、それまで知り得なかった広大な世界が広がっている。それを意識するだけで、世界はもっと面白くなるし、新しい経験や知識だって腐るほど手に入れられる。なんだか愉快な気分になってきやしないだろうか。

そういえばここ数年、仕事やら執筆やらが多忙を極め、友人知人と会う機会もめっきり減ってしまった。誘いがあったとしても、何かしらの所用と重なってしまうため、快諾できないことが続いてきた。

そして、ふと思う。気づけば、誰からの連絡もこなくなったこと。誰からの誘いもなくなってしまったこと。友人知人たちが見ている世界に、自分が存在していないこと。しかしだ、これだけは言いたい。目に映る景色がすべてじゃないよ。見ていない部分に、確かに僕は存在しているのだから、忘れないでいて欲しい。ローカルな存在だっていい。きっとこの世界のどこかで、立派に活躍しているよ、たぶん。

デタラメだもの。


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