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すべては自分次第~BUMP OF CHICKEN~from 『Butterflies』



はじめに

 『Iris』発売決定記念!バンプのアルバムを哲学的な視点で語る計3回のプログラムの第2回。今回も『Butterflies』の曲を中心に、歌詞のテーマについて語ることとなる。

  『Butterflies』というアルバムにはバンプの歌詞の哲学的エッセンスが凝縮されていると私は思うのだが、そのエッセンスについては、以下三つが挙げられる。
※今回は2を扱うが、後日3についても執筆予定。

1、ミクロとマクロ 
2、コペルニクス的転回 すべては自分次第?
3、説明できない最後のモノ(存在そのもの)

コペルニクス的転回

 前回、ミクロコスモスとマクロコスモスの議論を通じて、「主客の逆転」という発想にたどり着いた。その発想に近い考え方は、歴史的には「コペルニクス的転回」と言われるものである。
(この記事は歴史の用語を解説するものではないため、詳しく知りたい場合は、下記にリンクを貼っておくので参照していただきたい。)
コペルニクス的転回 - Google 検索

 さて、我々はどのようにものを認識するのだろうか。例えば、何かを見るとき。普通、ある物体が存在していて、それを目が認識すると考える。世界からの何らかの刺激があってその刺激に対する反応をする。「何かがあるから、その目で見る。」と言われる。しかし、そうではない。「その目が見るから、何かがある」のである。 

 コペルニクスは、太陽を中心に地球が動いているという「地動説」を唱えたことで知られる天文学者である。一方でそれ以前の「天動説」では、地球を中心として、宇宙の天体が動いている、と考えられていた。
 夜の星は、昼には消える。季節によって夜の星座の種類も違ってくる。太陽も月も星も、地球を軸に動いているように見えるのではないだろうか。地動説は現在では常識となっているが、我々の「主観」からは、天動説が正しいように見えるのではないだろうか。しかし、動いているのは地球のほうである。 
 このように、モノの見方が180度変わってしまう事態は、天動説から地動説への転換になぞらえて「コペルニクス的転回」と言われている。
 では、なぜ「コペルニクス的転回」が本記事のタイトルになっている「すべては自分次第」(すべては君次第)に繋がるのだろうか。前置きが長くなってしまったが、実際にバンプの歌詞を見てみよう。

『sailing day』 -すべては自分次第?-

 まずは、割と早い時期の曲から。

精一杯 存在の証明 
敗北も 後悔も 自分だけに意味のある財宝

sailing day

 この曲は、尾田栄一郎原作の同名漫画のアニメ『ONE PIECE』の映画主題歌であるが、「勇気をもらえる」「力をもらえる」歌詞だと思う。特に上に挙げた歌詞は、他人から見ればネガティブな敗北や後悔を、意味のあるポジティブなものにするのは「自分次第」である、というメッセージに思える。つまり、見方の「転回」である。

『虹を待つ人』 -初めからずっと自由-

  続いて、時代は下ってアルバム『RAY』の一曲『虹を待つ人』を見てみよう。

目を閉じれば真っ暗 自分で作る色

虹を待つ人

そのドアに鍵はない
開けようとしないから 知らなかっただけ 
初めからずっと自由

虹を待つ人

 真っ暗なのは、目を閉じているからではないのか。その「ドア」というのは、どこかに行けるドアというのは、開けようとするから見えるのではないのか。私たちは、初めから「自由」である。つまり、自分を不自由にしているのは、自分自身である、ということだ。

『Butterflies』

では、『Butterflies』収録曲の話に入っていこうと思う。

Hello,world! -肯定-

君が見たから 光は生まれた

Hello,world!

その目が見たから全ては生まれた

Hello,world!


  本当はあるんだけれども、見ようとすれば「見えるようになる」というのが『虹を待つ人』にて提示された答えである。しかし、このアルバム(『Butterflies』)では、その「主張」は、より先鋭化されているといえる。そもそも自分が見たから世界は生まれている。  
 ここで、「自分から世界は作られているから自分次第で作りかえることができる」というようなポジティブな考え方に繋がることとなる。

コロニー -心が作った街-

 続いて、映画『寄生獣』の主題歌となった『コロニー』『パレード』の歌詞を見てみようと思うのだが、この2曲は『Butterflies』というアルバムの中でも特に難解で、何について綴られた歌詞なのかは一読ではわからない。またこの2曲では、ややネガティブな方向に進むこととなる。

どこだろう いま痛んだのは
手を当ててから解らなくなる

コロニー

 という冒頭から始まるこの曲は、終始、疑問と不安定さに溢れている。
 しかし、上の歌詞は藤原特有のものではないと思う。心当たりがある人も多いのではなないだろうか。痛みはあるのに、どの当たりが痛んでいるのかは分かっているのに、いざ触ってみると何故か直接触ることができないのである。自分の感覚が疑われる事案であろう。それと同時に、自他の境界線が曖昧である、ということも以下の歌詞では読み取ることができる。 

体の壁が解らなくなる

コロニー

 このように、我々の感覚は不確かである。しかし、藤原はさらに進んで世界の存在それ自体を疑うかのような歌詞を綴る。

世界は蜃気楼 揺らいで消えそう

コロニー

世界は蜃気楼 張りぼての城

コロニー

そしてサビではこう綴られている。

心が作った街で起こったこと

コロニー

一方で、同じアルバムに収録されている『GO』にも、似た表現がある。

星空は君が作ったもの

GO

 『GO』では、肯定的な文脈で使われているのに対して、『コロニー』では肯定にも否定にも取れそうな文脈で使われている。肯定的に、ときに否定的に、「コペルニクス的転回」が示唆されているのである。
 ここで重要なのが、宇宙という大きな存在さえも、自分が作り出している幻なのではないか、という問いである。そしてここでの問いも、人間(という存在)とは何か、という問いと地続きなのである。

 もう一つの『寄生獣』主題歌については、主張はさらに先鋭化されていく。

パレード -心だけが世界-

 畳みかけるような歌詞が続く。曲の主人公は何かに追われているかのようだ。

呼吸はどうか 普通かどうか

パレード

どれが誰 誰が僕 白黒の真昼
思考はどうか 自分かどうか どこまでが本当か

パレード

 などなど、疑問が曲の主人公に次々と襲ってくるのだ。「溺れそうになる」ほどに、である。呼吸は動いているかどうか。思考はどうなっているか。どこまでが本当か。自分の生死や自他の境界が曖昧になる状態をこれでもかと描写する。自分の存在自体をも疑い始めるのである。ここで唯一言えることは 

心だけが世界

パレード

ということのみである。さて、曲の最後をみてみよう。

パレードは続く 心だけが世界
パレードは続く 僕はここにいるよ
パレードは続く 心だけが世界
パレードは続く 弱く燃える灯り

パレード

この曲を最後に(そして頂点に)、アルバムの中での「自分の存在の曖昧さ」というテーマは影をひそめることとなる。不気味な余韻を残して…。

Butterfly -再び肯定-

 さて、アルバムを遡ってみよう。ここで再びポジティブに戻ることになる。

この心自分のもの 世界をどうにでも作り変える

Butterfly

 そして、どういじればどうなるのか、を知っていると続く。どこかをいじるだけで、何か変えられるか、わかっているという。そのことについて、本当はずっと知っているのだが、気づいていないフリをしているだけだというのである。見えないのは目を閉じているからであり、知らないのは見ようとしていないからである。 
 そこに意志(道切り開く意思の剣)が宿る限り、世界をどうにでも作り変えることができる。すべては自分次第なのだ。 
 一方で、自分が見たから見える、というのは確かにその通りだが、肯定的なことばかりではない。むしろ、世界とは自分が作り出した蜃気楼みたいなもので、自分の存在だけでなく、この世界の曖昧さにも繋がるかもしれないのである。否定的な意味で「心だけが世界」となるのである。
 ここまで見て言えることは、肯定と否定、そのどちらにも行き来できるのがこのアルバムの特徴である、ということである。

『aurora arc』以降

 ここから最後に、『Butterflies』以降のアルバムである『aurora arc』 では世界観がどのように引き継がれているか、一つの例を出して考察する。

新世界

世界はシャボン玉で 運良く消えていないだけ

新世界

 「アイラブユーだぜ」という藤原の書く歌詞としては多幸感あふれる歌詞が印象的な曲だが、ここで挙げた一節は、「世界」は危ういバランスの上で成り立っていることを示している。シャボン玉のように、少しの衝撃でたちまち消えてしまう、そういう脆い存在なのだ。もちろん、世界には、自分という存在も入っている。

もう一度眠ったら 起きられないかも

新世界

 夢とそうでないものの違いとは何か。今現実と思っているものが本当は夢なのかもしれない。もう一度眠ってしまうと本当の現実に戻されるかもしれない。否、本当の現実なんてものも存在せず、そもそも私は存在していなかったかもしれない。
 続いて、 

もう一度起きたら 君がいないかも

 一度眠って起きたとき、君はいなくなっているかもしれない。いやむしろ「君は元々いなかった」のだ。「君は夢(幻)」だったのだ。

 このように、曲調と「アイラブユーだぜ」という歌詞とは裏腹に、自分という存在の不確かさ・不安定さが各所に表現されている。しかし、だからこそ、君の存在の大きさを物語ると言えるのではないだろうか。言わば、ポジティブ版『パレード』である。 
 例え自分の存在が不安定でも、君がいるだけで僕の生きる理由が生まれるのだし、僕の今日までが意味をもらうのである。曲がり角でそこに君がいると考えるだけでプレゼント開ける前の気分になれるのだ。
 「すべては自分次第」ということとは異なるかもしれないが、君がいる、と考えること自体が、自分の生きる理由を与えていると言えよう。例え、君が幻であったとしても。

おわりに

 主観(自分)と客観(自分を含めた世界)の逆転、というところから以下のことが導き出された(とはいえ、藤原自身がコペルニクス的転回を知っている、ということを言いたいのではない)。

 「世界は自分が見たから作られるのであり、自分自身で自由に世界を作り替えることができる」

 しかし実際には、肯定的な側面ばかりでない。極端に行けば世界の存在の否定へと繋がりかねない、否定的な側面もあることがわかる。『Butterflies』全体を通して、肯定で終わらず、不安という否定的な感情をも残している。 
 肯定と否定を行き来するところがバンプの曲たちにはあると言えよう。

 さて、第三回に繋がる話をして、この記事を閉じることにしよう。

 「世界は幻かもしれない。果ては自分も。」

という疑いが、今回の主題の一つである。
 
世界は蜃気楼かもしれない。
体の壁が解らなくなる。
呼吸はどうか。
どこまでが本当か。

などなど、あらゆるものを疑うことができる。
 しかし、あらゆるものを疑った先に、自分の存在だけが確かであることがわかる。世界は幻だとしても、その幻を見ている主体は、確かに存在している。そしてこの存在とは、身体のことであるとは限らない。自分の身体さえ も、疑いの対象なのだから。
 ここでの主体とは、物理法則で構成された身体とも、霊的なもので構成された魂とも異なる、より根源的な存在そのもののことである。 
 そしてそれが、説明できない最後のモノ(存在そのもの)、という三つ目のテーマ(エッセンス)に繋がるのである。



おわり


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