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2001年5月 私の人生から平和は消えた。

2001年5月
中学3年生 14歳。

修学旅行が終わり、保護者会に向けて
クラスごとにAOサイズの紙に修学旅行の思い出を制作していた。
我がクラスは、私と、私の仲の良い4、5人で作った。
AOサイズいっぱいに
クラスメイト48人の写真を沢山沢山貼った。

AOサイズ

最終下校時刻も過ぎ、校舎に誰もいなくなり
担任のH先生がキレ気味になったので
急いで終わらせて
私たちはH先生に展示物を貼ってもらうということで
教室から一番近い非常門からそれぞれ帰宅した。

これが私の、最後の平和な日だった。

翌日、登校したら
廊下に人だかりができていた。
展示されたのかな?
大変だったんだから〜AOサイズに写真を埋めるのは‥

見た瞬間、言葉を失った。


私の顔が
私の顔だけが
小指の爪くらいのサイズしかない私の顔も
すべて、100枚以上画鋲で潰されていた


猟奇的で、誰も何も言葉を発さなかった。

次の瞬間、世界は変わった。

私は殺される‥のだろうか‥。


この学校には、こんなことをするほど私を憎んでいる嫌っている
人間がいる。

でも昨日、校舎に誰もいなかった。
私たちが最後だった。先生しかいなかった。
この100枚以上の写真を、この小さな写真まですべて
誰が、いつ、やったの?

私たちの教室は非常門から一番近いから
正門が開く前の早朝に登校し
誰かがやっていたら誰かが見る。誰かが通る。
5分やそこらで潰せる量じゃない。
では複数人?
余計に誰かが目撃するはず。
そもそもAOサイズの一番上まで165cmの私でも手を伸ばしてギリギリだ。
椅子を使って?余計に目立つ。

じゃぁ、誰が、いつ、どうやってやったの?

48人の顔写真が100枚以上。
ピンポイントに私だけを識別して潰している。
この小さな写真も私なのか?自分でもわからないサイズまですべて。

憎しみ?
憎悪?嫌悪?愛憎?
これは悪戯ではない。執着が異常すぎる。

だれ‥?がやったの?

「犯人は探すな」


担任のH先生は開口一番、そう言った。
担任として、教員として、大人として、
「これはひどいことだ」なんて言葉はなかった。
他の教諭も、誰一人私に言うことはなかった。

犯人は必ず戻ってくる
私たち中学生の浅知恵ではこの程度で、
教室の廊下側の床の窓を開けて
皆で息を潜めて犯人を探した。

しかし聞こえてきたのは
下級生が「うわ‥すごくひどい‥」
「かわいそう」だった。惨めだった。
そして、なんだか申し訳なく思った。
悍ましいものを見せてしまったのではないか。

せっかくのクラスの展示が私のせいで悍ましいものになってしまった。

だけど私は剥がさなかった。
剥がしたら負けだと思った。
しかし、剥がさざるを得ない状況となった。
保護者会である。
前日、私は担任のH先生から

「このまま貼るかどうかはお前が決めろ」と判断を委ねられた。


被害者の私が?今?今、判断するの?私が?

当時私は、この時の保護者会のプリントを母に渡すことができなかった。
母を、よその保護者から好奇な目で見られることだけが嫌だった。

私は構わない。
でも母が傷つくことを避けたかった。
しかしプリントを渡さなかったら電話で出欠確認がされる。
母にどうして見せなかったのか聞かれ
ありのままを答えた。
母は「よそのお母さんの目なんて気にしないわよ」と高らかに言った。

だけど、私は剥がすことを選択した。

14歳の私には、猟奇的に娘が傷つけられたものを
母に見せることは耐え難い苦痛だった。

いくら母でもショックを受けるのではないかと。
しかし、今になって思う。
あのまま貼っていたらよかったのだろうか。
そしたら問題とされたのだろうか。
いや分からない。
分からない学校だった。何をどう判断するのか分からない学校だった。

私は、この猟奇的な画鋲事件のおかげで
人に殺されるのではないかと怯えながら学校へ通い


この猟奇的な画鋲事件のおかげで

「わたしは、こんな恐ろしい愚かな世界に
子供は絶対に産まない。
親が子を守るのに限度がある。私は産めない。」

そう決意した。
それは変わることがなかった。
中学3年生の5月、14歳のことだった。
当時の私に、人権などなかった。
14歳の時に私の心は殺され、未来に希望は持てなくなった。


23年が経ち
母を介護し看取り、
父が仕事を退任したことを機に
時代が過去の忌まわしい出来事を風化しなくなった今、
やっとこの件を含めて様々なことを
母校へ問いただせると思ったが
話すらしてもらえない現状である。理由さえ答えてもらえない。
これからどうしていこうか、頭も抱えているが
ここに記録として残していこうと思う。

#創作大賞2024 #エッセイ部門

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