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『夢の続きを創りに行こう』TKda黒ぶち自叙伝『Live in a Dream~夢の中で生きる』9回

TKda黒ぶち自叙伝『Live in a Dream~夢の中で生きる』

第1回「笑わない子ども」
第2回「邂逅と疎外」
第3回「孤独な少年  居場所を見つける」
第4回「RAPで知った  人に認められるということ」
第5回「青春の幕引き  そして新たな旅へ」
第6回「New York で変化したHIPHOPへの認識」
第7回「LIFE IS ONE TIME, TODAY IS A GOOD DAY.」
第8回「Don’t Let the Dream Die」

『Get Down』のMV制作で先輩たちから学んだコロナ禍での姿勢

Photo : Shunichi Oda

実力で掴んだ『フリースタイルダンジョン』3代目モンスターの座。そしてZeebraさんから掛けられた言葉。自信を手にした自分だったが、それからすぐに今なお続くコロナ禍に突入。3rdアルバム『Don’t Let the Dream Die』の発売を5月末に控えた4月7日、東京都には緊急事態宣言が発出された。

このアルバムにはフィーチャリングにZeebraさんとELIONEを迎え、トラックを憧れのMUROさんが製作した『Get Down』という曲がある。これは先行シングルとしてリリースした。その曲のレコーディング中、Zeebraさんはほぼワンテイクでレコーディングを終えた。その姿は『Who Am I』という曲の中で「俺には尊敬できる先輩がいるさ ワンテイクでRECしてたジブさんやKING達」とリリックにしたくらいカッコ良かった。

レコーディング後、スタジオで喋っているとテレビでは土曜日から外出自粛要請と報道されている。それを見たZeebraさんが

「今週末はみんな家にいるってことね。それなら今週末までに『Get Down』のMVをつくってアップしよう」

と提案。土曜日まで4日しか残されていないのに、そんなにすぐに撮影してアップできるのか疑問だった。するとZeebraさんが電話で誰かと話している。

「今週末までにMVをつくってアップしたいんだけど」

電話の相手は『狂気の桜』などの監督である薗田賢次監督。どうやら薗田監督も乗り気のようだ。翌日から3日間で撮影、編集をし土曜にはアップするという。さらにZeebraさんはカメオ出演してくれるよう色んな人と連絡を取っている。『Get Down』のMVの撮影、編集が行われた3日間、自分もほぼ寝ないまま同行し、本当に土曜日の午前中にはMVが出来上がった。

誰が考えても短すぎる制作スケジュールだが、Zeebraさんと薗田監督は一度たりとも間に合わないという言葉を口にしなかった。2人の姿からコロナ禍での生き方を教えられた気がした。自粛ムードで世の中が落ち込んでいても、ただその波に飲まれるのではなく限られた環境の中で攻める。こんなご時世だからこそ、家の中で踊って楽しもう。HIPHOPが力を発揮する時だと思わせてくれた。しかもカメオ出演してくれた人で出演料を請求してきた人は1人もいなかった。

『Get Down』TKda黒ぶち ft.ELIONE,Zeebra

『フリースタイルダンジョン』の終わりと『フリースタイルティーチャー』

緊急事態宣言は5月末に解除されたが、予断を許さない状況は続いた。そんな中、7月には『フリースタイルダンジョン』の打ち切りが正式に発表された。後継番組として始まったのが『フリースタイルティーチャー』。自分も出演することになった。

この番組を通じて、多くの芸人さんやアイドルさんとタッグを組んだが、一番最初に組んだゆりやんレトリィバァは特に印象深い。多くの人が顔と名前を知っている芸人さんにどうレクチャーすればいいのか悩んだ。しかもここで手を抜けばたとえ『フリースタイルダンジョン』が復活してもモンスターに復帰できないかもしれない。だからこそ、全力でレクチャーしようと決めた。

まず表面的なスキルだけ教えるのは辞める。1960年代後半のニューヨークはブロンクスの状況やHIPHOPが生まれた背景、Afrika Bambaata(編注:1970年代から活躍するHIPHOP DJ、ミュージシャン)などの基本的な知識からゆりやんにはレクチャーすることにした。幸いゆりやんが、ニューヨークに滞在した経験やアメリカのオーディション番組に出演した経験があったため、歴史的背景を説明するとすぐに理解してくれた。

そしてラップの練習を始めると、ゆりやんの飲み込みの早さ、そしてその努力する姿勢に驚かされた。毎日の練習はもとより、バトル本番1週間前には、仕事の後、夜中でも練習を続けた。

ゆりやんは、本気だった。もともとお笑い芸人さんのことは好きだったが、芸へのこだわりや一芸を人前で披露するため妥協しない姿を見て以前にも増して好きになった。自分自身もラップを生業にしている身として大いなる刺激を受けた。バトルの結果は決勝戦で敗れてしまったものの、ゆりやんとはよしもとの会議室でMV付きの1曲をつくるまでの関係を築くことが出来た。その後、ゆりやんからは行き場のない気持ちを表現することが出来るようになったと言ってもらえたのが嬉しかった。

『フリースタイルティーチャー』での活動の中でアメリカではコメディアンとラッパーの相性が良いことを思い出した。たとえば、アメリカの人気コメディアン、デイブ・シャペル。彼はBlock Partyの主催者だ。Talib KweliやCommonといった錚々たる顔ぶれのラッパーたちが参加している。日本でも同じく、芸人さんとラッパーは相性が良いのではないかと思い始めた。

また、ゆりやんをはじめ多くの人が知る芸人さんやアイドルさんが熱中してくれたことで、HIPHOPというカルチャーの可能性を以前にも増して感じた。それまでHIPHOP以外の場で活躍する人たちへレクチャーすることはなかったが、実際にやってみるとかつてないほど反響があり、影響力の大きさに驚いた。番組を通じて三度、ニューヨークの地下鉄で見たJAY-Zの曲で出勤前のマインドセットをするおばさんの姿を見て思い描いたHIPHOPをポピュラーにしたいという初期衝動を思い出させてくれた。

『Old School Flava』TKda黒ぶち&ゆりやんレトリィバァ

コロナの恐怖

Photo : Shunichi Oda

新型コロナウイルスがまったく収束の兆しすら見せない2021年夏。世界ではデルタ株が猛威を振るい、それが自分の身にも襲いかかってきた。

熱っぽいと感じた自分が体温を測ると39.5度。解熱剤で一時的には熱が下がったものの、時間が経つほど薬の量も増えていく。

もしかしてコロナに感染したのか?

最悪の事態を考え、PCR検査を受けるとやはり陽性。都内のビジネスホテルでの療養生活が始まる。

解熱剤で誤魔化していたツケが回ってきたのか咳は止まらず、熱も下がらなくなってきた。ホテルの一室から、フロアに置かれた弁当を取りに行くだけで4kmをランニングしたくらい息切れするようになる。次第にベッドから部屋にあるトイレへ行くだけでも5~6分は掛かるほどに症状は悪化の一途をたどった。

それでも心のどこかで治るだろうと楽観視している自分がいた。しかし、ある日の午前中ベッドで横になっていても歩いている時くらいの息苦しさを覚えた。どんな体勢で寝転んでも息苦しくて仕方がない。約5分近く呼吸困難のような状態が続いた。やっとのことで受話器を上げ、内線9番を押す。

「呼吸ができません」とだけ告げると、「すぐに駆けつけます」とホテルに常駐していた医師が応答する。

医師が部屋に到着するまでの約5分間、うつ伏せや仰向けとさまざまな体勢を試し、呼吸を試みるも一瞬吸えるだけ。まるで水の中で溺れているかのようだった

そこに酸素ボンベを持った医師が部屋に入ってくる。酸素を吸入しても水の中で溺れているよりかは楽な程度。苦しいながらも医師の声に耳を傾ける。

「これはすぐに入院ですね。搬送できる病院を探します」

しかし、いくら時間が経っても受け入れ先の病院は見つからない。ようやく見つかったのは夜10時頃。

搬送された病院内は、パニック状態だった。まるで野戦病院のよう。7人の患者が寝ている学校の教室の半分くらいの広さの病室に運び込まれた。患者と患者を隔てているのはカーテンの仕切りのみ。あちらこちらから咳き込む音が聞こえてくる。

血液検査を終えると、次はレントゲン撮影。通常ならレントゲン室で撮影するが、入院中はレッドゾーンと呼ばれるエリアから出ることが許されなかった。携帯用のレントゲン機器が病室に運び込まれ、病室の中で撮影した。

1時間、いや2時間は経っただろうか。あまりの苦しさにどれくらい時が経過したのかは覚えていないが、ようやくやってきた医師は肺はすでに真っ白で中等症Ⅱだと告げてきた。さらに悪化すれば重症化する可能性もあるという。ただし、その場合ECMOがある他の病院へ転入しなければならないが、空きがあるかどうかはわからない。この時、自分は死が間近に迫っている恐怖感でいっぱいだった。

その日から新型コロナウイルスの治療薬・レムデシビルを投与され、酸素ボンベを吸入し、ひたすらに耐えた。あまりの息苦しさに勝手に酸素の排出を2倍にしたくらい。死の恐怖に包まれ、苦しむこと2日間。若干だが熱が下がりはじめると、酸素ボンベを2倍にしなくても苦しくなくなってきた。自分は回復に向かっているんだ。死の恐怖からは脱却できたが、息苦しさは相変わらずだった。入院6日目、トイレまで酸素ボンベなしで恐る恐る試しに歩いてみた。しかし1分もすると苦しくて仕方がない。思っているほど回復はしていなかった。

人災か?

同時期、今年5月16日に新プロジェクトの第一弾シングル「Loyalty as a human like (feat. Yuka Miyamae)』HRSM & TKda黒ぶちをリリースした音楽家のHRSMも同じく中等症Ⅱと診断され入院していた。徐々に回復し始めたHRSMと病床からLINEで頻繁に連絡を取り合った。

自分が入院していたのは、公立の古い病院。食事まで昭和だった。和食がほとんどで、海を超えた料理が出ない。一方のHRSMが入院していた病院は比較的新しかったようで、海を超えた料理、パスタやミネストローネが出たという。

そんな他愛もないLINEをしながら、2人の意見が一致したことがある。それはデルタ株が流行る前に、なぜもっと野戦病院のような施設を作らなかったのかということ。ニュースを通じて、自宅療養中に亡くなられた方が報じられていた。しっかりと準備をしていれば、救われた命があるのではないか人的災害の可能性もあるのではないのかと意見が一致した。退院して1週間後に、その想いを込め、HRSMと初めてソロとして制作した曲『Man Made Disaster』をレコーディング。タイトルは直訳すれば人災だ。

その後、ガールズラップユニット、hy4_4yh(ハイパーヨーヨ)のプロデューサー、江崎マサルさんが亡くなったことを知り、その想いを一層強くした。江崎さんとは、現場で一緒になることもあれば、何度か飲みに行ったこともあった。江崎さんは自宅療養中に亡くなられた。

また、自分自身も死の恐怖を目の前にして、まわりの目を気にするのをやめよう。やりたいことをやるべきだと覚悟した。以前にも増して意識的になった。

令和の長屋へ

Photo : Shunichi Oda

ビジネスホテルでの療養が11日間、入院が3週間弱。合計で約1ヵ月間が過ぎ、ようやく退院できた。地元である春日部を、これだけの長期間離れたのは大学卒業間近のニューヨーク滞在以来のことだった。

地元に戻って感じたこと。それはその静けさや刺激の少なさ。死の恐怖を感じ、刺激を欲していた。またHRSMが作る音は、例えるならアスファルトの匂いがする。彼と音楽を作るなら、都心に住んだほうが良いのではないか。加えて、春日部で生まれ育ち、活動を続けてきた自分の中では10年同じスタジオ環境で製作することにマンネリ化もしていた。

改めて今後の生活拠点を考えた時、地元の先輩のトラックメイカー、J-TAROさんに、東京に住むのはどう思いますかと相談したことがあったのを思い出した。

J-TAROさんは「マンスリーアパートでもなんでも良いから一度試してみればいいじゃん」と教えてくれた。とりあえず、この言葉に従い、一度春日部を離れてみよう。調べてみるとコロナが猛威を奮っているため、都心のビジネスホテルは空きだらけ。宿泊料金が大幅に値下がりしていて、六本木駅から徒歩2~3分のビジネスホテルが1泊3000円だった。試しに、そのホテルに1ヵ月滞在してみることにした。

都心のど真ん中に根城を構え、環境を変えると、音楽の感じ方や捉え方が変わることに気がついた。また春日部を離れたことで、地元への想いもより一層強くなった。結局、ホテル暮らしは5ヵ月ほど続き、地元を離れ、東京へ引っ越すことを決意した。

HIPHOPポピュラー化計画

HRSMとの出会い、『フリースタイルティーチャー』の出演を通じて、ニューヨークの地下鉄で見た光景を実現するために動き始めた。それは「HIPHOPポピュラー化計画」とも言える。HIPHOPを知らない人たちは、未だに

「チェケラッチョでしょ」
「壁にスプレーで落書きする人たちでしょ」
「なんか口喧嘩するやつでしょ」

などのネガティブなイメージがあるようだ。音楽業界の一部にも、あんなものは音楽じゃないと未だに発言する人がいる。だからこそ、そうした物をすべてひっくり返し、音楽業界の重鎮たちにまずは認めてもらい、チャートにランクインしないといけない。それは壮大な野望で自分自身が実現できるかどうかはわからない。ただ、その礎は築きたいと考えている。

これまでもZeebraさんをはじめとする諸先輩方でHIPHOP以外の場へHIPHOPを持っていき、カルチャーを広めようと努力されている方はいる。ただ、ラッパーの中にはそこに多少なりとも拒否反応を示す人がいるのも事実。また、自分は他の業界の方と交渉する際には、少なくともスーツを着て望むべきだと考えている。しかし、カジュアルな服装で来てしまう人が多い。HIPHOPでは通じても、それでは他の業種では信用されない。

ポピュラーにするためにHRSMと曲作りを始めた。彼は、HIPHOPのトラックメイカーではない音楽家。だからこそ表現できることもある。二人に共通しているのは「ファイトミュージック」を作りたいという気持ち。自分とHRSMで地道に曲をリリースしていくことで、共鳴してくれるラッパーがいることを願っている。

「描く道しるべ ヴィジョンがあれば道は拓ける Live in a dream 夢の中で生きる この先もそう 夢の続きを創りに行こう」

『Dream』TKda黒ぶち

『Dream』TKda黒ぶち

取材・文:本多カツヒロ 編集協力:イトー 写真:小田駿一

■謝辞 
全9回に渡る自叙伝を読んでいただきありがとうございました。本編は今回で終了となります。反響の大きさに驚きました。読んでいただいた方、サポートしていただいた皆様にはただただ感謝しかありません。ありがとうございました!

自分のことを知っている家族や地元の友だちからすれば、そんなにネガティブなことばかりではないだろうと思う内容もあったかと思います。でも、そういうネガティブなことを乗り越えてきたからこそ、今自分は音楽で飯を食えている。だから誰のことも恨んでいません。むしろ感謝しかないです。

また5月16日に1年間あたためてきた新プロジェクトの第1段シングル「Loyalty as a human like (feat. Yuka Miyamae)』HRSM & TKdakurobuchiをリリースしました。ぜひチェックしてみてください。詳細は→こちら

6月7日 TKda黒ぶち こと 星 隆行

『Do For Love』TKda黒ぶち ft.ZERO

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