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『Don’t Let the Dream Die』TKda黒ぶち自叙伝『Live in a Dream~夢の中で生きる』8回

TKda黒ぶち自叙伝『Live in a Dream~夢の中で生きる』

第1回「笑わない子ども」
第2回「邂逅と疎外」
第3回「孤独な少年 居場所を見つける」
第4回「RAPで知った 人に認められるということ」
第5回「青春の幕引き そして新たな旅へ」
第6回「New York で変化したHIPHOPへの認識」
第7回「LIFE IS ONE TIME, TODAY IS A GOOD DAY.」

・お前の夢は一体何?

Photo : Shunichi Oda

1stアルバム『LIFE IS ONE TIME, TODAY IS A GOOD DAY.』の発売を控えた2015年12月。日本に空前のMCバトルブームを起こした『フリースタイルダンジョン』への出演が決定した。当初、『フリースタイルダンジョン』には、若手が中心に出演していた記憶がある。MCバトルでの実績があり、中堅に差し掛かった自分とDOTAMAさんが初めて出演したのは、放送開始から約3ヵ月後。収録では、同時にインタビューも行われた。

「TKさんの夢ってなんですか?」

インタビュアーの何気ない質問に思わず口ごもった。インタビュアーを待たせること数分、結局この質問には答えることができなかった。インタビューを終え、自分の夢はなんだったのかを自問自答する。それが無くても日常に支障は無いのだけど、答えられなかったことが何故だか凄く引っかかっていた。プロ野球選手?違う違う。あれは子供の頃の夢だ。

・奇跡の4連休

当時、自分はまだドラッグストアで働きながら音楽活動を続けていた。1stアルバムは『フリースタイルダンジョン』に出演したこともあり、最初の出荷数から比べると予想以上に売れた。番組の勢いを感じた。すぐさま2ndアルバムの構想を練り始める。「夢はなんですか?」と質問され、答えられなかったことが頭から離れず、「夢」というものにもう一度向き合ってみようと志を決めて、2ndアルバムのテーマを「夢」にしようと決めた。

ドラッグストアという小売業に従事していると、週休2日でも土日など連続した休みはほとんどない。にも関わらず、なんの因果か、奇跡的に4日連続の休みがあった。これは勤務史上、一番長い連休だった。せっかくの4連休、目指す先は、夢の地であり、音楽的な礎を築いたニューヨーク。2泊2日の強行スケジュールだ。

2010年以来に訪れる街は、お店などの入れ替わりや新しい建物が建っていてもなお変わらずハートフルで、「夢」と向き合うと決めた直後でもあり物凄く特別な想いが沸き上がっていた。初めてこの土地で過ごしたあの日々が思い出され、「あの時は夢を抱いていたな」と思い返す。手元にあった2ndアルバム用のビートを聴きながら街を歩き構想を練っていった。2ndアルバムの構想はニューヨークでほぼ出来上がった特別な作品だ。

・憧れのMUROさん

ほとんどの曲の輪郭は描けたが、何かピースが足りない。『フリースタイルダンジョン』でのインタビュー以来、ラッパーを志した当初の夢は何だったのかを考えていたが、ここに来てようやく結論が出た。レジェンドであり、中学生の時にMICROPHONE PAGER(編注:MUROさんやTwiggyさんなどが所属していたクルー)の曲を聞いて以来のファンで憧れのMUROさんと曲を作ることだ。社会人になり、忙しい毎日に追われ、そのことをすっかり忘れていた。

思い返せば、大学卒業間近に、今でも自分のライブDJを務め、小学校からの知り合いのyukihILLと作ったアルバム『Day Break』の2曲目でMUROさんについて16小節ラップをしたこともあった。また社会人1年目、フリーターの時、池袋BedでMUROさんがDJプレイを終えた途端に近づき、その1バースを突然ラップして周りの取り巻きに止められたことも。そんな突飛な行動に出た時、MUROさんは自分のラップに耳を傾けてくれた。

なぜ、MUROさんが好きなのか。それは常に普遍的なことをラップしていたから。特別悪ぶるわけでもなく、音や表現方法でかっこよく見せる。それはヤンキーでもアウトローでもなかった自分にとっての良い見本となっている。加えて「KING OF DIGGIN’」と言われる通り、音楽に造詣が深く、おしゃれでクリエイティブ。そこに憧れた。

帰国した自分は忙しない日常に戻った。ちょうどその頃、HIPHOP専門ラジオ局WREPの開局記念パーティーがBar WREPで開かれ、自分も参加。それまでほぼ話したこともなかったZeebraさんやDJ YANATAKEさんと知己を得た。さらにYANATAKEさんにはゲストとして招かれていたMUROさんを紹介してもらえた。憧れの人物に1stアルバムを手渡した自分は、トラックを作って欲しいと頼み込み、出来上がったのが2ndアルバム『Live in a dream!!』に収録されている『Dream』だ。WREPがなければ、そしてYANATAKEさんがいなければ確実にこの一曲は完成しなかったはず。(改めてこの場を借りて感謝します。)

『Dream』TKda黒ぶち

・肩を大怪我

ドラッグストアへ出勤途中、自転車で転び、肩の骨を折る怪我を負ったのもこの頃。手術が必要な上に、1週間の入院、1ヶ月の安静が必要だという。社会人になってからというもの、働き詰めだった自分にとってこんなにも長く仕事をしないなんてことは考えられなかった。退院してから自宅で休養していると頭がおかしくなりそうだった。そんな状態だったから気がつけばロンドン行の飛行機のチケットを予約していた。しかも出発は5日後という無茶な状況だ。

こうした思い切った行動に出たのも入院中のとある出来事の影響が大きいかもしれない。それは退院が近づいた頃、談話室で腰のヘルニアの手術をしたというおじさんに話しかけられた。

「君は何かやっているの?」
「働きながら、音楽をやっています」
「俺はもう70歳だよ。先が長くないのはわかっている。趣味のマラソンをずっと続けてきた。これからも走りたいから、ヘルニアの手術を受けたんだ」

自らの境遇を話し始めたおじさんは隣の病棟を指差した。そこは終末医療の病棟だった。

「俺も10年後はああなるかもしれない。思っているより人生は短いぞ!やりたいことがあるなら、後悔しないようやっておきな」

そのおじさんの言葉はひどく説得力があった。

このエピソードは2ndアルバムの『Change』という曲にも反映されている。そんな言葉を受けて、退院した自分はロンドンへ赴いた。ロンドン到着初日にテロ騒動に巻き込まれたりと一悶着はあったが、初めて足を踏み入れるヨーロッパの街並みはニューヨークとは違った魅力に溢れていた。現地には春日部出身の画家の先輩が住んでいることを思い出した。それまで一度も会ったことはなかったけども、Instagramで連絡を取り、飲みに行くことになった。その方がセカンドアルバムのジャケットを描いてくれた石井亨さん。

せっかくロンドンへ来たんだ。そうだ!パリへ行こう。なんとロンドンからパリは日帰りで遊びにいける距離。憧れのルーブル美術館やシャンゼリゼ通りを凱旋門へ向かう道を歩いたり、パリの街の一つひとつに物凄くパワーをもらった。そして観光用の二階建てバスに乗り、街並みを楽しんでいると岡本太郎さんが本に書いていたことが急に降りてきた。その昔、岡本太郎さんは夕方パリのカフェでコーヒーを飲んでいる時、日本で芸術活動をして食べていくのか、それとも世界を目指すのかの二択を突然迫られたという。

自分も規模は違えど、30歳を目前に音楽だけで食べていくのか。それとも会社員を続け安定を求めるのか。そう選択を迫られているかのようだった。退院間近に談話室で聞いたおじさんの話や『フリースタイルダンジョン』の盛り上がり、自分の夢、30歳を迎える直前の年齢……すべてが重なり、セカンドアルバムを出したら会社を辞めようと決心した。いつかは、辞めようという気持ちはあったが、ようやく決意するに至った。衝動で決まったロンドン・パリへの旅行は人生の岐路となる旅になった。

2ndアルバム『Live in a dream!!』のジャケット

・立つ鳥跡を濁す

会社を辞める決意をし帰国してから、仕事に身が入らない自分がいた。その頃、AbemaTVで放送されていた『NEWS RAP JAPAN』にラポーターとして出演していた。隔週午前11時から午後1時までの収録。仕事を遅番にしてもらい収録に臨み、六本木から急いで職場へ直行。

職場にはバレないように、音楽活動を本格化させていた。その矢先、まだ手術して間もない肩で重い荷物を運び、怪我を悪化させ、しばらく休む羽目になった。しかし、自分がその間何をしていたかと言えば、ライブやAbemaTVに出演。そのことを知った職場のスタッフから本社へクレームが入り、地域を統括していた部長さんと面談をすることになってしまった。

「星くんはどうしたいの?」

その部長さんは自分のことを目にかけてくれて、昇格試験などいろんなチャンスを与えてくれていた。その人を目の前に「申し訳ないですが、辞めさせて頂きます」と告げた。結局アルバムをリリースする前に微妙な形で辞表を出したことになる。

立つ鳥後を濁さずと言うけど、自分は濁しまくって辞めることとなった。それでも最終日には、「みんなに迷惑かけちゃダメだよ。でもみんな応援しているから」と快く送り出してくれた。

・音楽だけの生活と戸惑い

ようやく夢にまで見た音楽だけでの生活が始まった。すると生活習慣が一変。それまでのように朝起きて、夜まで週5日働くという多くの人と同じ生活をしていたのが、突如、1日中すべてが自由な時間になった生活になったのだからそれも当然だ。戸惑いや不安があったが1年ほど経過すると、そんな生活にも慣れ、会社員のときが働きすぎだったのかもと思うようになったのだから、慣れというのは恐ろしい。

レコード会社に所属しているわけではないから、2ndアルバムの制作費はすべて自腹。300万円以上かかった。それでも会社員時代の貯金で1年間は生活を維持することはできた。会社員時代、自分には遊ぶ時間もあまりなければ、車や家を買ったわけでもなかったから貯金だけはあった。それもKEN THE 390さんから、ある程度の貯蓄をしてから脱サラをしなさいというアドバイスのおかげだ。

それでも不安がないわけではなかった。2ndアルバムは1stアルバムに比べ売上が奮わず、憧れのMUROさんにトラックを作ってもらい、念願のニューヨークで撮影したMV『Dream』をYou Tubeにアップしてもあまり再生されなかった。主な収入源はAbemaTVの『NEWS RAP JAPAN』の出演料。それでも会社員のときと同じような生活水準を維持していたから貯金は減っていく一方だった。(『Dream』はMUROさんに作ってもらった素晴らしいトラックだったが、知ってもらわないと聴いてもらえないという当たり前のことを痛感した。その後、『Dream』の再生回数は伸びた。それはYANATAKEさんがバトルのDJをする度にビートとして使ってくれたからだ。感謝しかない。)

・窮地

Photo : Shunichi Oda

音楽生活に専念し1年半が経ち、預金残高は心もとなくなっていた。当時の自分は簡単に言えば伸び悩んでいた。特別にヒットした曲があるわけでもないが、MCバトルを通じてそこそこ名前は通っている。年齢的にも中堅。その中で頭一つ抜け出したものがあったわけではなかった。

今はWREPでひとりで番組を進行しているけど、はじめは春日部の先輩、崇勲と2人で放送していた。当時、崇勲は『フリースタイルダンジョン』のモンスター2代目。崇勲から番組内の企画で維新軍を結成し、モンスター軍と対戦させ、その中から3代目のモンスターを選ぶという噂を聞いた。ここで結果を残せば、新たな道が開けるかもしれないと考えた自分は維新軍のひとりとしてモンスター軍と対戦し結果を残したものの、3代目モンスターは、ERONEさん、JUMBO MAATCHさん、 FORKさん、 呂布カルマさん、ID。自分は選ばれなかった。

その月、通帳の預金残高は3万円だった。翌月に必要なお金は30万円。後が無いのは明白だ。窮地に陥った自分は、モンスターの残り1枠をかけた「3代目モンスター決定戦」に参戦すべくWREPで昼の帯番組『Zeebra’s LUNCHTIME BREAKS』を担当しているオーガナイザーのZeebraさんを直撃

維新軍の中で一番勝率が高かったこともあり、自信を持って「モンスター決定戦にエントリーさせてください」と直訴した。Zeebraさんは、「ウェイヨ」と一言だけ言って立ち去っただけだったが後日、モンスター決定戦へのエントリーが決まった。Zeebraさんと話すのは今も緊張するが、当時は今以上に緊張していた。直撃するだけでも清水の舞台から飛び降りるような覚悟。だがそれだけ『フリースタイルダンジョン』、そして3代目モンスターにかける気持ちは強かった。

・負ければ再就職も覚悟したモンスター決定戦

決定戦に勝てなければ、音楽だけの生活から離れ、再就職しなければならない。ダメなら履歴書も書かなければと追い詰められた自分だったが結果はご存知の通り、勝ち上がり3代目モンスターの座をつかんだ。

当日着ていたTシャツには、キング牧師の名言「Don’t Let the Dream Die」(夢は死んでいない)が書かれていた。3rdアルバムのタイトルを「Don’t Let the Dream Die」に決めた。自分のラップをはじめた初期衝動や夢は死んでいないという意味を込め、楽曲を憧れのDJやトラックメイカーにお願いした。

不思議なことに想いを作品に込めると、その想いがゼロになる、昇華されるということをこれまでも経験してきた。今回も音楽活動に専念してからの1年半を一旦フラットにして、再出発を図りたかったのかもしれない。

今のHIPHOPシーンには、アウトローなラッパーや華のあるラッパー、テレビ映えするラッパー、いろんなラッパーがいる。その中で自分には華がないことは端からわかっている。髪の色を変えたり、服装を変えて演出をするタイプでもない。だからこそ、実力で自分の地位を勝ち取らないといけない。3代目モンスターを自らの手で勝ち取ったことは誇らしかった。

・Zeebraさんの言葉

モンスターとしての『フリースタイルダンジョン』の収録が始まった。テレビ番組だからといって自分のスタンスを曲げるべきではない。相手の音源を聴き込み、相手を理解して有意義なバトルをしようと志を立てた。チャレンジャーにとっても自分にとっても意味のあるバトルにしよう。上辺だけのディスり合いではなく、心と心のやり取りがしたかった。

モンスターになり一番驚いたのは、負けた時の反響。親しいCHICO CARLITOや崇勲などのモンスター経験者からあらかじめ聞いてはいたが、Twitterでは長文のDMやリプライが飛んでくる。途中から精神衛生上見ないようにした。でも、このことでモンスターという自分が勝ち得たポジションの偉大さを改めて理解できたのもまた事実。ほかのモンスターに同じことが起こったため、チームの連帯感は強まった。

モンスターになり初めての打ち上げが六本木の店で行われた。最初に店に到着していたZeebraさん、ERONEさん、JUMBO MAATCHさん、そして自分の4人で飲み始めた。1軒目なのに、日本酒を5合も飲んでしまった。いつもより早く酔いが回り始めた自分が、店の外にある喫煙所でたばこを吸っているとZeebraさんもやってきた。

初めて2人きりになった。しかもお互いに酔っている状態。何を言われるのか、不安だった。しかし、Zeebraさんからは自分のこれまでのスタンスを肯定する言葉を掛けてもらった。その言葉は今もハッキリと覚えているが、心のなかに秘めさせてほしい。そのZeebraさんの言葉によって自分が貫いてきたスタンスが間違いではなかったと確信した。

『Get down ft. ELIONE,Zeebra』TKda黒ぶち

次回公開予定日  6月7日

取材・文:本多カツヒロ 編集協力:イトー 写真:小田駿一

■謝辞 今回は、会社員から音楽1本での生活へ移った過程をメインにお届けしました。あらためて自分はタイミングや人に恵まれていると痛感する日々です。

諸々の事情があり、1週間お休みさせていただきました。いつも楽しみにしてくれている方にはすみませんでした。全8回とお伝えしていましたが、次週の9回目が最終回になります。お楽しみに!

また5月16日に1年間あたためてきた新プロジェクトの第1段シングル「Loyalty as a human like (feat. Yuka Miyamae)』HRSM & TKdakurobuchiをリリースしました。ぜひチェックしてみてください。詳細は→

(毎回投げ銭的なサポート機能を使いサポートしてくれる読者の方々にはあらためて感謝申し上げます。)

5月31日 TKda黒ぶち こと 星 隆行

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