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『LIFE IS ONE TIME, TODAY IS A GOOD DAY.』TKda黒ぶち自叙伝『Live in a Dream~夢の中で生きる』第7回

TKda黒ぶち自叙伝『Live in a Dream~夢の中で生きる』

第1回「笑わない子ども」
第2回「邂逅と疎外」
第3回「孤独な少年 居場所を見つける」
第4回「RAPで知った 人に認められるということ」
第5回「青春の幕引き そして新たな旅へ」
第6回「New York で変化したHIPHOPへの認識」

・虫の知らせ

Photo : Shunichi Oda

ニューヨークでHIPHOPとは何たるかを確信し、これからは音楽で飯を食うと意気込んで帰国した自分が成田空港で目にした光景……それは働く人たちの覇気のない顔や目つきだった。この国の閉塞感を感じたんだ。ニューヨークがオープンな人で溢れていたから余計にそう感じたのかもしれない。後にそれが日本特有の静けさや趣であると理解できたが、当時はそう感じざるを得なかった。その光景は、今振り返るとフリーター1年目の暗澹たる日常を暗示していたのかもしれない。

晴れて大学を卒業し、自分はフリーターとなった。高校生からアルバイトでお世話になっていたドラッグストアで4月から夕方5時から深夜0時までの時間帯のシフトで働き始めた。空いている時間でリリックを書き、筋トレをする毎日。同時に、C-MONKEYら10代からの仲間ら5人で北千住に家を借り、スタジオ環境を整えた。音楽に向き合う環境や時間は十分だった。

・疎外感back again

地元の友だちの多くが就職という道を選んだ。並行するように音楽活動から去っていく。友だちが朝早く起き出社している姿を見て、自分のライフスタイルに疑問が湧いた。社会の多くの人と同じライフスタイルから外れたことに言いしれぬ不安を感じてもいた。それまでの人生を小中高大といわゆるメインストリームを歩んできた自分にとって、就職をしないという決断は初めてレールから外れた選択だった。加えて、春日部INGも閉店。ひとりだけポツンと取り残されたような孤独と疎外感を感じていた。それを乗り越えようと焦れば焦るほど、すべてが空回りするだけ。

不安から昼間も寿司のデリバリーのバイトを始めた。そのことがさらに空回りに拍車をかけただけでなく、働きづめの毎日にただただ疲れ果てた。「フリーターで金を稼ぐために大学へ行ったのか?」とさえ思ったくらい。ライブでもうだつは上がらず、バトルでも勝てない。当然、良い曲なんて作れなかった。せっかく整えた音楽環境も無駄骨に終わった。

・ネガティブな中での一筋の光

そんな毎日の中でもすべてがネガティブなことばかりではない。寿司のデリバリーをしていたバイト先は大手寿司チェーンを退職した社長が新たに始めた会社。間近で経営者がどうお金を生み出し、人を率いるのかを見られる貴重な経験だった。(今このお寿司屋さんは葬儀屋さんに業態を変えている。今年の2月に祖母が亡くなったのだが偶然にも葬儀屋がここで、社長に当時の振り返りや現状を報告できて嬉しかった。)

当時の自分はRAPをしてさえすれば食べていけると甘い考えを持っていた。CDを販売するなどのお金を生む仕組みがまったく見えていなかった。だからこそ、このときの経験は後に大きな意味を持つようになる。

一筋の光が見えたのは卒業後1年目の夏。春日部駅前でその後、ビートメイキングをしてくれることになる地元の先輩、J-TAROことJさんとの再会だ。Jさんは小学校の2個上の先輩で、学生時代に会った時は尖っていた。しかし、再会した時にはある程度丸くなられていたので、色々と相談することができた。毎日のようにJさんと曲をつくったり、話をしているうちに大人の社会の考え方を知ることができた。Jさんは、社会性を保ち、最低限人様に迷惑をかけないことを守りつつも、それ以外の部分では大胆な動きもできる。そのバランス感覚に優れている人だ。

『NOSTALGIE PART2』C-MONKEY&TKda黒ぶち

・フリーターの言葉は響くのか?

季節が秋を迎える頃、今度は同級生で会社員をしながらDJもやっている友だちと飲む機会があった。自分のライブによく足を運んでくれていたから、友だちでもあるけど、オーディエンスの1人でもある。その彼から相談を受けた。内容は組織に正社員として属している人ならではの葛藤、もっと言えば世の中の多くの人が抱えている悩みだった。

それに対し、その経験がない自分は何のアドバイスもすることなんてできなかった。ふと考えた。ただのフリーターがステージから何を訴えようが、自分の言葉はオーディエンスに響かないのではないのかと。

ニューヨークの地下鉄で、JAY-Zの曲を聞きながら、出勤前のマインドセットをしていたおばさん。あの光景を日本でも実現したいという想いを強くしていたにもかかわらず、それができていないことに気付かされた。やはり、RAPは生き様なんだ。自分がその立場に立ち生きた経験をみんなにシェアして何かを訴える。それができていない自分に絶望するしかなかった。

・震災とパニック

ちょうどその頃、ドラッグストアの店長さんから第二新卒で正社員にならないかと嬉しい誘いを受けた。その店長さんは、バイトを頑張っている自分の姿を見ていてくれたらしい。バイトから正規雇用を増やそうという社の方針も相まって話はトントン拍子に進む。大学卒業当初、自分は就職をすることは夢を諦めることだと考えていた。

でも、Jさんや会社員をしながらDJをしている友だちと飲んだ時に、同じような経験をしなければJAY-Zのように多くの会社勤めの人たちへ言葉を響かせることができない。そう痛感した。就職は大きなチャンスだった。給与や条件など何も見ずに、1日だけ考えて就職することを決めた。あらためて出会う人に恵まれていると感じる。

2011年に入り、正式に正社員としての登用が決定。契約書を見ると、びっくりするような金額の初任給。それならばと、約1年間フリーターとして貯めたお金を使い、全国をひとり旅しようと決めた。正社員になったら、そんな時間を確保することが難しいのは目に見えていたから。

仙台や大阪、札幌へ向かった。3月9日に夜行バスで大阪へ到着。3月10日の夜、大阪から神戸に移動していたので神戸から春日部に帰るため、三宮駅前で深夜バスを待ちながら物思いにふけっていると、小さい頃テレビで見た阪神淡路大震災のことが頭をよぎった。「あれからこれだけの復興を遂げたのか」と感慨に浸ったのを今でもはっきりと覚えている。

だけどその翌日、春日部の自宅に戻り、夕方のバイトまで自宅で体を休めていると、突然大きな地震が起きた。東日本大震災だった。

被災地では多くの方が被災され亡くなった。被災地ほどではないにせよ自分が住む埼玉や東京などの首都圏も混乱の真っ只中だった。働いていたドラッグストアでは、薬だけでなくさまざまな日用品を扱っている。いつなくなるかわからない商品を買い求め、配送のトラックが店舗に到着する度に人が群がる。まさにパニック状態。その模様をニュース番組ではなく、直に体験した。

ラッパーの中には、すぐさま震災についての曲を発表する人もいたが、仕事上、混乱の中に身を置いていた自分は、この感情を曲にすること自体に違和感を覚えた。

仕事で世の中がどれほど混乱しているかが身に染みていたし、実家で何かがあれば、男手は自分ひとり。常に臨戦態勢で気を張る日々を送っていた。

・スタイルの礎は札幌で固まる

3月末、ライブのために札幌へ。そこで見たのは、被災地や首都圏とは違い、以前の日常を取り戻しつつある人々の姿だった。震災以降、連日の余震、それによる警報などの緊張感から解き放たれ、考えを整理する時間ができた。ニューヨークでの経験やこの1年フリーターをして感じたこと、1年間のパッとしない音楽活動、そして約2週間前に日本を襲った未曾有の震災と混乱に思いを巡らせる。

再び、JAY-Zの曲でマインドセットをしているおばさんの姿が脳裏に浮かぶ。混乱し、ネガティブな情報があふれる世の中だからこそ、自分は一般の人に向けて響く内容をRAPしなければいけない。しっかりとした言葉で物事の核心をつき、多くの人の救いにならなければならない。この1年、ニューヨークで確信したHIPHOPのスタイルを模索し続けてきたが、ようやく今もなお続くスタイルの礎ができた。それはちょうど札幌のGHETTOというクラブでのライブのときだった。

・フリーター、社員になる


Photo : Shunichi Oda

ようやく自分のスタイルを手にした2011年4月、ドラッグストアに正社員として入社した。入社当初行われた新人研修は泊まり込み。その時感じたのは同期との人生に対する考え方の違いだった。自分は、会社員という多くの人たちと同じ立場を経験し、それをRAPに還元したいという志を持っていたが、同期の中にはなんとなく就職、気だるさを常に口にするなど、ほぼ同年代にも関わらず日常へのモチベーションの違いに戸惑ったりもした。

それまで自分は、極論すれば付き合う人たちを選り好みをしていた。だが、社会人になればたとえその人の態度に憤りを感じようが、表面的とはいえ、ある程度は好意的に接しなければならなくなる。これも大人として生きるためのルールのひとつなのかもしれない。そして自分が届けるべき人達はそこで接する人達なのだから理解を深めなければと。

初めて配属された店舗は、朝7時オープン、深夜12時クローズの長時間営業だった。しかも店長はズルい大人。週5日の勤務のうち週3日は遅刻するような人だった。要するに、若い社員やアルバイトやパートを使って、自分がいかに楽をするかを考えていた。

そのお陰で、朝は6時半に出勤し鍵を開け、店長が欠勤した日は夜の9時や10時まで働いた。本来なら、午後の6時半には上がりだというのに。残業続きの毎日が続く。よくラッパーが社会人に向けて”9時-17時の仕事をしてる人にも!“的なことを言うがそんな仕事本当に少数、冗談じゃないと思ってた。1年目の会社員としては残業が多く、信じられないくらいの給与を頂いてはいたが、あまりの残業時間の多さに本部からの調査が入った。戦犯扱いされそうだった。でも理不尽だが頭を下げたこともあった。ひとえに忍耐とも言えるのかもしれない。NASの「忍耐こそ力だ」という言葉が背中を押した。

・連戦連勝の2012

破竹の勢いとはまさにこの時期のことを言うのだろう。首都圏では震災の影響が少なくなり、迎えた2012年。自分はMCバトルで無敵を誇った。「戦極MC BATTLE 第三章VS罵倒」と戦極MC BATTLE VS Ultimate MC BATTLE 2012 埼玉予選」で勝利し、「THE 罵倒 2012」でも優勝。UMBの埼玉予選も勝ち抜いた。今でこそ、ボディタッチがありかなしかがルールとして定められてはいるが、当時のMCバトルでは特に定められていなかった記憶がある。自由だからこそラッパーたちはマナーを守っていた。

後に漢さんが

「ボディタッチしてしまうくらい熱くなるのがMCバトル」

と語っているのを聞き思わず膝を打った。この言葉は決してボディタッチを肯定しているわけではない。

それほどまでの戦績を誇ったのは、前年札幌で自身の確固たるスタイルが固まった後に社会人として戦いを続けていたのが理由だった。魂と魂のぶつかり合い。RAPを始めた15歳から8年目でようやくスタイルを手にした自分は、セックスを覚えたての童貞かの如くバトルに熱中した。

・憧れの般若さん、漢さんとのバトル

RAPを始めた当初、フリースタイルには魅力を感じていたが、バトルには魅力を感じていなかった。その認識を変化させてくれたのが「B-BOY PARK 2002」の漢さんvs般若さんのバトルだった。

以前も書いたが、魂と魂のぶつかり合いとも言えるバトルが目覚めるきっかけとなった。だからこそ漢さんと般若さんは憧れの存在だった。般若さんと初めて対戦したのは「UMB2008」の東京予選でのことだった。久々にバトルに参戦する般若さんとの対戦当日、自分は迂闊なことを言えばボコボコにされるのではないかとビビっていた。メンタルを落ち着けるために、Mobb Deepの『Shook Ones, Pt.1』を聴いたくらい。本来、落ち着くような曲ではないのにね。

いざ般若さんとの戦いが始まる直前、当たって砕けろ、自分が真摯にバトルに向き合うきっかけとなった人物と戦えるんだ。悔いなく戦おう。そう決心しバトルに挑んだ。結果は負け。でも悔しさより全力を出すことができた清々しさが上回った。

控室に戻る通路を歩いていると、般若さんが突然現れ、両手を差し出してきた。反射的に手を握る。

「ありがとうございました!」

かっこいい大人だと一瞬で虜になった。自分の心に残る好バトルだ。

UMB2008 TOKYO 般若 vs TKda黒ぶち

そして2012年快進撃を続ける自分はついに漢さんと戦う日を迎えた。年末のUMB本戦を前に、池袋BEDで対戦する機会があった。エントリー料1万円で優勝者が16万円を総取りするというダースさん主催のバトルでのことだ。

絶対に勝つと意気込んで臨んだ漢さんとの対戦だったが、呆気ないとも言えないくらいズタボロに負けた。RAPのスキル云々の前に、存在感に圧倒されてしまった。それより前から漢さんとは交流もあり、どれだけ優しい人かもわかっていたから決してビビっていたわけではない。今まで味わったことのないほど高い壁にぶち当たった感覚。自分は早くに父親という存在の庇護下から離れたためわからないが、よく「父親の背中を超えられない」と皆が口にする。このとき感じた衝撃はそれに近いのではないかと思っている。

自信喪失のまま3日後に迎えたUMB本戦では、ベスト8で兄貴的な存在であるNAIKA MCさんに破れた。調子が良いのに勝てない理由を自分なりに考えた結果、スキルなどは重要だが、バトルにおいては存在感や積み重ねによる説得力が重要であることに気がついた。その人がどんな人生を歩み、生き様を楽曲として発表しているのか、だ。

・野心を持て

漢さんとの初対戦とUMB本戦の少し前、12月のはじめに「罵倒グランドチャンピオンシップ」で優勝した。実を言うと、本来グランドチャンピオンシップには出ない予定だったが、急遽出場が決定。賞金の20万円を頂いた。出るはずのなかったバトルで優勝した負い目もあり、後日主催者であるG.Oさんに賞金を返しに行くと、

「受け取りな。TKに足りないのは野心だよ」

今でもその言葉は心に深く刻まれている。2012年の年末の出来事を通じて、自分の未熟さを痛感した。

「罵倒」を取った後、チャンピオンだけで曲を作ることになった。レコーディングが始まったが、その年にバトルばかりしていたせいで、一向にレコーディングが上手く行かず、他のラッパーたちを待たせてしまった。自分は、楽曲なら楽曲、バトルならバトルとどちらかひとつにしか集中できない。不器用なタイプだ。

漢さんとの対戦で学んだ生き様と存在感、それは何を背負ってバトルに挑むか。それを痛感し、「罵倒」で頂いた20万円を元手にラボをつくり、翌年の2013年はひたすらリリックを書いた。正社員3年目を迎えていた。

・KEN THE 390さんからのアドバイス

3年目を迎えた会社員生活も忙しない毎日だった。それでも毎日のようにリリックを書き続けた。自分が正社員になった同時期に脱サラをしたKEN THE 390さんの教えがあったからこそだ。

「今年から社員として働きながらRAPもしているんです。
脱サラした時はどんな気持ちだったんですか?」

将来的な脱サラを予定していた自分は先人であるKENさんに現場で尋ねた。

「会社員として残るか、音楽1本にするか、いずれ選択するときが来るよ。まずは、音楽に専念する時のためにお金を貯めておきな。
すぐに食べていけるようにはならないから。俺も実際はそうだったよ。

もうひとつは、会社員として1日を終えないこと。
自分がラッパーであることを忘れないために、毎日1バースでも書きな。
そうやって1日の終りをラッパーとして終えることで、会社員だけではない自分のアイデンティを保つことができる」

そのアドバイスに従い、365日毎日ではないが、曲をたくさん書き留めた。

でも、小売業のため休みは土日ではない。週末の金曜や土曜のイベントに呼ばれても翌日も仕事。寝ないで仕事へ行く日も多々あった。

『種』TKda黒ぶち

・DJ PERRO a.k.a. DOGGさんが背中を押してくれた

たくさん書き留めたリリックを作品として世に出したいと思っていた頃、仕事で地元を離れていた先輩のJさんが戻ってきた。ふたりでラボに入り浸り、曲作りやレコーディングを始めた。それはちょうど2014~15年のこと。実は、それより前の2011年、1stアルバム『LIFE IS ONE TIME, TODAY IS A GOOD DAY.』に収録されている『種』のビートを、MIC JAC PRODUCTIONのDJ PERRO a.k.a. DOGGさんから初任給で買っていた。

でも、1stアルバムはどうしても完成度を高く世に放ちたいとの想いが強く、リリックを書いては消しの繰り返しで製作がなかなか進まない。悪戦苦闘していると、PERROさんから、「曲はどう?」と連絡があった。

数曲は出来ているもののアルバムとしての完成度に不満があるということを伝えると、

「何曲かできていると言うけど、1曲もリリースされてないよね。
それは世の中からすればないも同然。
いろんな言い訳を並べているけど、ビビっているだけなんじゃないの?

1枚目は不完全で良いんだよ。不完全だからこそ2枚目で完璧を目指すんだよ。納得できるできないではなくリリースするんだよ。それで恥をかけ」

すでに多くの作品をリリースしている先輩の愛のある叱咤激励に何かが吹っ切れた。まだ数曲しかできていなかったが、流通業者との話もつけアルバム『LIFE IS ONE TIME, TODAY IS A GOOD DAY.』を2015年12月30日にリリースすることを決めた。同じ頃、『フリースタイルダンジョン』への出演も決定。いろんな先輩たちのアドバイスやタイミングのお陰で多くの人が知るようになる現在の活動が始まる。このフリースタイルダンジョンへの出演がきっかけで大きな人生の転機を迎えることになる。

次回公開予定日 5月24日

取材・文:本多カツヒロ 編集協力:イトー 写真:小田駿一

■謝辞 今回も多くの諸先輩方の名前が出ました。自分は出会う人やタイミングに本当に恵まれていると振り返りあらためて思いました。そうした出会いがあり今があります。感謝しかありません。連載は残り1回(の予定)で、名残惜しいですが最後まで楽しんでいただければ思います。(前回も多くの感想やサポートを頂きました。この場を借りてありがとうございます!)

そして昨日、5月16日に1年間あたためてきた新プロジェクトの第1段シングル「Loyalty as a human like (feat. Yuka Miyamae)』HRSM & TKdakurobuchiをリリースしました。ぜひチェックしてみてください。詳細はこちら!

5月17日 TKda黒ぶち こと 星 隆行

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