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愛と感謝の気持ちと、自分軸の境界線




先日、私が私の中の軸さえしっかりしていれば、両親に連絡をとった際、両親から例えどんな言葉を言われても、捉え方や解釈で、傷つく事も出来るし、傷つかない事も出来る、と思いました。
という事は、自分次第で、自分の捉え方次第で、自分の現実が変わる、という事だと思いました。


すべて自分次第なんだな...と思えたら、
ただただニュートラルな自分で生きていいと思えて、ただただニュートラルな自分であるだけだから、今なら出来そう...と思い、その時の素直な気持ちに従って、可能なら母親に連絡してみようと思い、行動しました。


両親とは、会えない結果でしたが、自分から連絡をする事が出来たという収穫と、その後の学びがあったように感じました。
この時、もう、私は、何にも、今までの両親との関係にも拗れた気持ちにも、執着せず依存せずにいようと。
自分の感情をきちんと感じて、その後は、その感情に拘らず、そこに留まらずに、流して流して循環させようと思いました。
自分の外側は地にしっかり足を付けながら、何にも執着も依存もせずに、個として動じない私で、
自分の内側は水が流れるように、素直な感情を停滞なく循環良く巡らせる、そういう自分でいたいと思いました。


そう思えて、生きる事の楽しさを感じました。
私はこの自然を豊かに感じるこの地で、働きたい。自然の空気を思い切り吸って吐いて呼吸して、私が想う、愛と感謝の巡りのために暮らしたい、そう思いました。


私は日々生かされて、導かれて、守られて、恵まれ、満たされている。
その事に心から感謝して、日々を1歩1歩、そんなふうに生きながら、私に出来る事があるのならと、そういう気持ちは無くさずに持っていたい。
別の何者かになるのではなくて、今のありのままの私が出来る事、そう考えて、ただ日々を生きたい。
心を楽にして生きたい。と、そう思いました。
私が物心付いてから、心が楽になったこんな感覚は初めてだと感じました。こんな気持ち、同じ心持ちを、両親と妹にも感じてほしいと思いました。


私は私の人生を自由に選んで生きていい。
両親は両親、妹は妹の人生を自由に選んで生きていい。
この事が大前提にあって、
私は両親の意向に沿うようには人生を選べなくて、悲しい思いをさせた事は、ごめんなさいという気持ち。
両親2人が存在して、私に命を繋いでくれて、産んでくれてありがとうございました、という感謝。
両方の気持ちを、罪悪感なく、感情に揺れもなくブレもなく、ただただニュートラルな気持ちで感じました。この気持ちを平常心で素直に感じてありのまま表現出来る事。これがきっと、大事な事かもしれないと思いました。


感情が自然に動いて行く事を止めませんでした。
私は、その後、
どのくらいの年月、時間を掛けて、悩んだり、苦しんだり、考えて、感じて、私がこの気持ちに辿り着いたのか、両親がどのくらい理解してくれるのだろうか...と、思いました。
そして、(例えば伝えたとして)どのくらい、私の気持ちが伝わるのだろうか...と思いました。

私の気持ちを、わかってほしいけど、今の両親にはきっと伝わらないだろう...と思いました。だから、今、言えないと思いました。
「宗教」が間にあり、壁となり、バイアスが掛かっているからです。
私の長年の気持ちは、宗教が間にある限り、両親に、きっと届かない。昔からもう何度となく、それは繰り返し、わかってきた事でした。
これも、私の思い込みなのか?とも、考えました。
私の思い込みかどうか、判断するために、少しでも両親に会って話しが出来たなら、今の両親の心情が何かわかるかも...と思いましたが、先日は会う事は叶いませんでした。今は会う時ではないのだろう...と思いました。
今、私がニュートラルな心情で、私の気持ちを仮に伝えたとしたら、両親にありのまま届いたり、両親に響く事はあるのだろうか?
私が、今、気持ちを言葉にして伝える事は、両親をどんな気持ちにさせるのだろう...、2人の心を楽にするのだろうか...、それとも苦しい気持ちにさせるのだろうか...。
いつかそんな期待や、心配、不安を手放して、たとえ届かなくても、私は両親に気持ちを伝えたりするのだろうか?
そして、その先は?...などと考えました。

今、宗教、という壁があるのは現実です。
そして、私の気持ちが、両親達に届かないのは、
宗教があるからだと、ずっと長い間、私と両親の間に宗教があるから、宗教のせいで、私と両親、私と妹は、分かり合えない、こういう今の関係なんだ、と思いましたし、思ってきました。
そういう現実を、再度、痛感して、
もしも私と、両親達の間の宗教バイアスが無くなれば、私の気持ちが通じるかもと、悩み苦しんだ末に辿り着いた気持ちを、もしかしたらわかってくれるかもしれないと思い、
宗教から両親、妹を、今からでも取り戻せないものかと、思ってしまいました。
感情を流れるままにしていたら、
どうにもならない事に辿り着き、どうにもならない事を考えて、その思考にはまりこみ、なかなか抜け出せなくなりました。
考え過ぎて、私はおかしいんじゃないか...と思いました。
でも、私はたぶん、ここと対峙する必要があったのではないかと、思いました
以前、若い頃に、同じような気持ちになった時は、私は辛すぎて、向き合う事から逃げた気がしました。

当時も、今回も、両親に、宗教をやめてほしい。
妹に、宗教をやめてほしい。
普通に関わろうよ。
そう思いました。

叶わない事です。

信教の自由、本当に個人個人の自由です。
それを理解するしかない。

でも、幼い頃、私が実家で育つ間に、両親との関わりで、安心感や温もりを感じた時もありました。
妹と、○○ちゃん、お姉ちゃんと呼びあって、遊んだ日々もありました。喧嘩して泣いた時もありました。妹が給食を食べられない時は、いつも付き添っていました。楽しい事、辛い事を共有して育ちました。そんな昔の日の事を思い出していました。

辛くなり、涙が零れました。
でも、気持ちを感じようと思いました。
本当は、宗教を間に挟まずに両親とも妹とも関わりたかった。妹と、子供の頃のように、関わりたかった...
...泣きたい気持ちに素直になって泣いて、そして、
頑張り過ぎない、考え過ぎない、と深呼吸して、
心を緩めて緩めて穏やかに...と思いました。
その後も、感情が自然に動いていく様に任せていました。

7日、朝になり、気づきました。
私、両親、妹の事が、大好きだった...と。

もう、ずっと昔から、私は両親、妹が大事で大好きだった。
そんな事は、あれ... ...?... と、
当たり前の事で、わかっていたはずだったのに... というような気持ちでしたが、本当に、わかったのが、今朝だった、そんな感じに思いました。
もちろん、されて嫌だった事は嫌だった事で、許せない事は許せない気持ちですが、それを踏まえた上での、気持ちでした。

私は、家族が大好きだったけど、私は両親と妹とは生き方の異なる、私の人生を選びました。

(宗教組織上の規則)排斥という処分を伝えられる頃、私は、
私達は関わり合うと傷つけ合う結果になるから、もう関わらない。お互いただ元気に暮らしていたらそれでいいと思っている。
というような内容の手紙を書きました。
それは、家族が嫌いだからそう書いたのではなく、
大好きなのに、信仰心により考え方、生き方が違うせいで、会って関わるといつもお互いに傷つけ合ってしまう。いつも深く傷つけ合うから、それが辛くて、お互いに会わないほうが、関わらない方がいいと思ったから、もう私は家族を傷つけたくないから、そう書いたんだと、その頃の気持ちを思い出しました。

その頃は、ただ辛いから、という気持ちが大きかったと思います。
でも、なぜ辛いかと言ったら、大好きだから。
本当は本心は家族が大好きで、大事な家族で、分かり合いたいのに、いつも分かり合えない。話せば気持ちのすれ違いで傷つけ合うばかり。それが本当に辛くて、悲しくて、その現実にいつも直面して、いつも辛く苦しい気持ちになる。それが嫌だから、敢えて距離を置き、関わる事を避けた。
当時は、苦しい気持ちが先行して、深くは考えられなかった気がします。
その後、どこかのタイミングで、深い部分の気持ちに気づいたように思います。
でも、それを、その気持ちを受け止めて、認めて生きていくのは辛すぎて、私は家族なんか好きじゃない、私には家族は居ない、と自分に言い聞かせて、ずっと心にしまい固く蓋をして、見ないようにして、生きてきたと思います。

今回、自分の感情と向き合い続けてきて、
いろいろな、何層にもなっていた感情の層がめくれて、
遂に、たぶん、この家族への気持ちが上層に出てきて、そして、きっと、無自覚に一気に、自分自身が、その家族への気持ちに傾いてしまったんじゃないかと思いました。
先日とても、ニュートラルで肯定出来る気持ちになっていたのに、保てず、安定した気持ちだったのに、その直後に、なぜか分からないうちに、気づいたら、とても苦しい気持ちに変化していました。どうしてこんな気持ちになった?と、ますます訳がわからなくなり、いきなり迷路に迷ったようでした。
しばらく長く悩み迷った末、きっと私が、感情が自然に動いていくように任せていた結果、家族に条件付きの愛を求めてしまったからだと思いました。無償の愛、無条件の愛、という事に気づくため、だったように思います。


前向きな気持ちと、家族を思う気持ちが、適切な位置(ニュートラル、ゼロ地点)を越えて、家族に執着する側に傾いてしまった。自分軸が傾いてしまった、だから、苦しくなってしまったんだと。自分軸に戻らなくてはと思いました。
両親、妹の事を思う事は、私の軸が変わる、私が揺らぐ事ではない。
家族への愛や感謝の気持ちは、
あくまでも自分軸、自分がしっかり確立されていて、その上でしっかり感じるもの、表現するものだと思いました。

そして、私は自分軸だからといって、両親、妹に自分の考えや感覚、気持ちを押し付ける事も違う、と思いました。
両親、妹は、宗教を信仰している。そうして心穏やかに、すでに、もう、自分で自分の生き方を確立して、心を楽に生きているのだと思います。
家族に宗教をやめてほしいという思いは、私の勝手な思いでした。
私に私の自由な生き方があるように、両親、妹にも、それぞれ自由な生き方があるのだから。
両親、妹が信仰していても、いなくても、両親、妹であるという事に変わりはないですし。
両親、妹の生き方は、それぞれが選んでいるのだから、私は今までと変わらずに静観するもの、と思いました。
正直、そう思うしかない、そうするしかない、という諦めもあります。
信仰心の違いによる親子関係、家族関係、改めて難しいものだ...と思いました。同じ理由、又ほかの様々な理由で、家族との関係等について、私だけではなく、多くの方々が様々に悩み考え、日々懸命に生きていらっしゃるという事も、この向き合いの中で分かりました。


昔は、家族への気持ちの葛藤に加え、自分で作った思い込みからの辛い気持ちもあり、自分の人生に深く向き合う事が出来なかったと思いました。
今は、今まで起きた事、今起きている事、すべてを受け入れる、そういう思いでいます。
私は、両親、妹に対する本心が改めてわかり、本人達の信仰心と暮らしを静観して、もう何も望まずに、無条件の愛と感謝の気持ちを一定に保ちながら、今後、自然な成り行きで関わる必要事が発生する時に、私が可能な関わりをしていく、それだけだと、今、そう思っています。


そして、愛と感謝の気持ちは心から持ちつつも、その気持ちに傾き過ぎて、自分軸がブレてしまうのは違うと。
自分の気持ちや、両親達の気持ち、どちらかに傾いたり、偏るのではなくて、自分という個の境界線をしっかり認識して、私はただただニュートラルな自分で居る事。私は私という、揺るがない自分軸でいる事。
この数日、そういう学びだったように思いました。


自分の過去から現在、昔や、今の感情を感じて、向き合いを続けてきました。一周まわって、元の場所に戻ったようにも感じますが、向き合いをした事で、自分の中の何層にも重なっていた感情がめくれて、その都度本当の感情に気づけて、感じきる事を続けて、今の気持ちに至れたと感じています。
この後の学びも、自然な流れに委ねようと思っています。




純愛/鈴木雅之




今までの感情を、心から感じて、学べて来た事に、心から感謝しています。
noteを通して見守ってくださった皆様に、
記事を通して私に気づきをくださった皆様に、
コメントで声を掛けてくださった皆様に、
本当に心から感謝しております。
ありがとうございました。
お読み頂き、ありがとうございました。



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