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【連載小説】地獄の桜 第二十話
しかし、孤独に慣れた心というものは、何と恐ろしいのだろう。僕はこんなにも幸福へと変わり始めている自分の人生において、人間を愛することの素晴らしさの前にも関らず、自らの臆病さを無様にもさらけ出してしまう、少なくとも僕は自分がそういう人間なんだと、悟った。
それは僕がある夢を見たからだった。もうその時には八月になっていた。
それはお盆休みを使ってさくらと海辺のホテルに遊んだ夜のことだった。
日
【連載小説】地獄の桜 第十九話
思えばさくらと僕が同棲したのは、たったこれだけのきっかけによるものだった。そういえば、さくらが僕に初めて私生活のことについて、こんな風にはっきりと語ったのもこの時が初めてだったかもしれない。
言葉通りさくらは元々住んでいた貸しアパートをさっさと引き払ってしまい、一週間もしないうちに僕の部屋に住み着いた。
さくらが持ってきたのはほんのわずかな化粧道具と推しているアイドルのCD数枚と、旅行鞄に入
【連載小説】地獄の桜 第十八話
「金を返して下さい」と僕は静かに言った。
「金? 何のことだ」
「全部僕にツケましたよね」
「あれ、昨日は酔っ払っていて何をしたか良く覚えてねえんだよなぁ……そういえばあんたって誰だっけ、そもそも人違いな気もするけど……まあいいや、じゃあまた」
急によそよそしくなった中年男はどこかへ走り去ってしまった。もはや追いかけるのも馬鹿馬鹿しかったので、そのままにしておいた。
僕は見捨てられた子犬のよう
【連載小説】地獄の桜 第十七話
まあでも私立なのだし、あといずれにせよ、今の時代、大学なんてお金のない家からは金持ちの道楽としか思われないだろう。ともかく、僕は頭痛という苦しいことからいち早く逃げるためにロキソニンを飲んだ。そしてこの憂鬱を吹き飛ばすには、外の空気を吸うのが一番だということを僕は知っていた。
しかし朝の景色は、空気は、夏の重苦しい魔力に取りつかれたように浸食されていた。外に出るとまず眩しかった。そして生温い塩
【連載小説】地獄の桜 第十六話
今回の迎え酒はオンザロックにした。これも捨てがたい。ウイスキー本来の風味を味わいたいなら、本当はこれの方が良いのだろう。
そして今日は味わいたかった。それはウイスキーに限らず、色々と報われない身の上の辛さや、何よりさくらに対する淡い恋心を自分の中で今一度嘆きたかった。さくらの笑顔を近くで見ながら、そのシャープな香水の香りに包まれているよりも、こうして一人酒に溺れながら目を閉じて滲む涙に咽ぶ時の
【連載小説】地獄の桜 第十五話
僕はそのコメント者の投稿した小説(と言えるものか知らないが)をまるで我が事のように苦々しく思いながら、ふと自分の左指の人差し指の根元のあたりが腫れているのを見つけた。
どこかにぶつけたか? と最初は疑ったが、すぐにあの蚊とやらのせいだと気が付いた。
人の血を吸うだけでこんな腫れを作ってしまう、これは悪い蚊だと思った。おまけに僕の血をわざわざ吸いに来るというのが、なおのこと悪趣味だと思った。
【連載小説】地獄の桜 第十四話
夜というものは、様々な輪郭をゆっくりと溶かしていく。それは物だけではなく、僕の心もこんな風に輪郭を失くして、そして輪郭のない形を失った考えにほんの僅か残った『意味』という名の人間がかけたおまじない。
しかし、そんな『意味』の虚しさを、このスナックの喧騒はどこかへ持ち去り、やがてはその喧騒も時とともに移ろい、そして残っているのはスナックの店主と、カウンターでうつ伏せになっている僕だけだった。
【連載小説】地獄の桜 第十三話
そのおじさんに連れられた所は、そこからそう遠くない路地にある、店の外壁が全部黒タイルで覆われているどこか変テコな小さなスナックだった。
さっきとはうってかわって、席数が五つもないんではないかというほどの窮屈な空間に押し込められ、その上店内も真っ黒に塗りつぶされたデザインでわずかな間接照明がカウンターの向こう側からぼんやりと光っているのが何とも侘しく見えて、一言でいうと、僕はフキゲンだった。
哀れみなんて微塵もいらないから、僕の好きなようにさせてくれ
【連載小説】地獄の桜 第十二話
本当に、店の外に出てしまうと傍にいるのはうだるような夏の湿気と軽い倦怠だけだった。しかしさくらを指名して僕が通うそのキャバクラ店の名前が『Cherry』だとは、よくできたものだと思う。
一瞬、眩いミラーボールの光に照らされてキラキラ光っていたさくらの小顔が、僕の目に残像のようにチラついた。そして一人淋しく歩く僕の目にはこらえることもできずにこぼれた涙がぽろぽろと零れだし、歳を取って涙腺ばかりゆ
シンプルな文章が良いか複雑な文章が良いか、という問題については、そもそも世の中の物事はその二種類に分けられるほどシンプルではない。
ただ、シンプルな表現が良いという傾向が進み過ぎているようなので、つむじ曲がりの自分は、複雑な文章こそ素晴らしいのだという意見に立っておくだけだ。
【連載小説】地獄の桜 第十一話
黒服に案内された席に着いて僕は肘をついて「考える人」みたいな恰好をしながら、中々さくらが出てこないことに「席まで案内しておいて、もしかして今日もか?」と嫌な疑念が自分の頭の中に沸き起こっていることに気が付いた。
すると僕は急に心細くなって顔を上げた。近づいてきたのはさくらではなくマキちゃんで、ため息をつきそうになったが、僕の方へ意味ありげな笑みを向けただけでどこかの席へ行ってしまった。どういう
【連載小説】地獄の桜 第十話
僕が週末の夜の街というものにこんなにも惹かれてしまうのは、何もかもが白日の下にさらされているような平日の自分に嫌気がさしているからだろう。全てが数字で可視化され、二人きりの事務所の窓からは夏場の強い日差しが容赦なく差し込み、既に過労でぐったりとした僕の体にとどめを刺して強い頭痛なんかを引き起こしたりする。
それに比べ、土曜の夜の街のこの光景ときたら、全てが混沌の中で境界を失くしていながら、実に
【連載小説】地獄の桜 第九話
とりあえずタバコを灰皿でひねりつぶしながら、マスターの顔をふと眺めた。年の割に元気な方といった感じをしているが、それでも口の上のちょび髭や髪の全くない頭などが、マスターの体を通り過ぎていった時間の長さをそれとなく漂わせていた。するとこんな言葉がふと口をついて出た。
「おじさん、若い頃はどんなだったの」
「私ですか……まあこんな感じでしたよ」
「こんな感じって(笑)、頭も?」
「……店を開く前は広
【連載小説】地獄の桜 第八話
店の奥の壁際に掛かっている古時計は渋い木の屋根がついていて、昼の十二時丁度になると下の扉からフクロウの人形みたいのが出てきて、同時に低く小さな鐘が鳴る仕組みになっている。
壁はくすんだ茶色をしている。その中に少しうぐいす色も混ざっている。よく見るとうっすら模様がある。しかしくすんだ色が邪魔をしてよく見えない。
通うようになったばかりの頃は何とも思わなかったが、随分とここに通うようになり、ここ
【連載小説】地獄の桜 第七話
そんなことをグダグダしていると「昨日に『明日行こう』とか言ってたのは何だったんだ」と読者諸君からツッコまれるのは想定内であ、いや分かっている。覚悟している。男の度胸。でもよく読んで欲しい。上述の通り平日は徒に忙しいだけの殺伐とした毎日を送っている男だ。土日位はもう少しこのようにダラダラしたって良いじゃないか。
FXで買った通貨のレートをふと見る。それにしても、この頃は慣れたもので、一日の間にも