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【連載小説】地獄の桜 第十四話

 夜というものは、様々な輪郭をゆっくりと溶かしていく。それは物だけではなく、僕の心もこんな風に輪郭を失くして、そして輪郭のない形を失った考えにほんの僅か残った『意味』という名の人間がかけたおまじない。
 しかし、そんな『意味』の虚しさを、このスナックの喧騒はどこかへ持ち去り、やがてはその喧騒も時とともに移ろい、そして残っているのはスナックの店主と、カウンターでうつ伏せになっている僕だけだった。
 すきま風が僕の背中を淋しくも優しく吹き抜けていった。こんな冷気にも優しさを感じるようになってしまった僕はやっぱり末期だ。
「あれ? ……あのおじさん、どこ行った」
 僕がそう思って呟いた瞬間、店主が歯切れの悪い口調でこう言った。
「おじさん? あの人ね、常連なのよ……全部あなたにつけるとか言って逃げたけど……。
 今度来た時どうせ叱り飛ばせば払ってくれるから……払わなくていいからね」
「いや……お騒がせしました。大丈夫です。少しは払えますよ」
 そう言って僕は絶望的な気分のまま破れかぶれに数万円分の札束を叩きつけ、引き留める店主をよそに外へ飛び出した。

 風に遊ばれたのか、僕の心の中にも瞳の中にも涙のようなものはどこかへ散って、それはしょっぱい香りのする生温い、というよりムッと暑い夜の空の中へ溶け込んで行ったのだろう。だから家路を辿るうちに自分の心の中の振幅は徐々に弱まり、いつもの何もなく酒ばかりの空虚な、薄汚れたもやがかったような白い壁面で覆われた僕の部屋に着いた頃にはもはや何の想念もなかった。
 下らない茶々が入ってきたのはその時だった。性懲りもなくノートパソコンを立ち上げれば、その気もないのに何か気になっていつの間にか某小説投稿サイトの更新通知を確認してしまう。
 何が、「あっという間に読んでしまいました、続きが楽しみです」だよと思った。こんな僕の現実ごときで感動しなければならないほど世の楽しみに飢えているのか。
 まあ確かに、世の中浮いた話なんてちっとも見つかりゃしない。でもそれだったら、どうせ世の中に転がってないんだと半ば分かったならどうしてそれを自分で作ってみない。僕もこうして自然な流れで作品を自給自足しているしがない身に過ぎない。簡単なことじゃないか。あれ、でも、このコメントしてくれた人も小説書いているんだ、どんな小説だろう……。
 そしてそのコメント者の投稿小説は、世の中がつまらな過ぎる一人男がふて寝するだけの内容で「完結」となっており、まるで僕の小説の投げやりな冒頭そのものでそれ以上のオチはなかった。いや、そういうことじゃないだろ。

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