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【連載小説】地獄の桜 第十八話

「金を返して下さい」と僕は静かに言った。
「金? 何のことだ」
「全部僕にツケましたよね」
「あれ、昨日は酔っ払っていて何をしたか良く覚えてねえんだよなぁ……そういえばあんたって誰だっけ、そもそも人違いな気もするけど……まあいいや、じゃあまた」
 急によそよそしくなった中年男はどこかへ走り去ってしまった。もはや追いかけるのも馬鹿馬鹿しかったので、そのままにしておいた。
 僕は見捨てられた子犬のような気持ちでバス停まで歩いた。そのためか散歩に連れられていた大型犬が通りすがりに僕に吠えまくった。僕は犬も猫も嫌いではないが、猫のリアクションがつれないのを少し物足りなく思うのと同じくらいに、犬が時折襲ってくるのに対しても少しではあるが不満に思うことがある。でも今回に限っては、犬が吠えた理由はおそらく僕が子犬のように見えたからであって、それは僕が子犬のように可愛く見えたということに他ならないのである。そこまで思い至って、僕はそれを許すことにしただけでなく、むしろそれが嬉しい位だったのだ。
 それに、嬉しいことはそれだけに留まらなかった。バスに乗り、『グラナダ』の最寄りバス停で降り立つと、そこにはゆくりなくも丁度さくらがバスを待っていたのだ。さくらはどんな時でも、自分自身の身体を半分この世から乗り出しているみたいに、現実感のないほどに美しかった。
 僕一人が降り立ち、そして偶然乗り込もうと待っていたのもさくら一人だけだった。
 僕はさくらに無言で笑いかけた。そして少し近づいて顔を甘えるように傾けると、さくらはこの上ない笑顔でヒャッ、みたいな笑い声を少し立てた。
「昨日はありがとう、お疲れ様」
「ありがとうございます……フフッ、なんだかアイドルPに言われてるみたいですね」
 バスは僕が堪え切れずさくらに頬を寄せていくのを見届けるようにして去って行き、大型犬に吠えられても消え残っていた僕の絶望的な気分は、ここで完全に霧散した。
 すれ違った大型犬と、口づけをしたさくらは僕の休日に舞い降りた天使だった。

「……人生に疲れました」
 長いキスの終わりにさくらがそう呟いた。長いエクステのまつ毛が少しいつもより輝いて見えるのは涙が滲んでいるのだろうか。
「どうしたの? 珍しいことを言うね」
「今月の家賃払うのがギリギリなんですよね……体調を崩して休んでしまったので……あ、すみません! 私事で!」
「じゃあ僕のウチに住みなよ」
 僕はひとりでにそんな大胆な言葉を繰り出していた。自分でも驚いた。さくらも暫く口を開けたまま顔が固まっていた。
「本当に……?」
「いいよ、もちろん。一緒に暮らそう。でも一つだけ聞いて欲しい」
「何ですか?」
「付き合ってくれないか」

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