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【連載小説】地獄の桜 第九話

 とりあえずタバコを灰皿でひねりつぶしながら、マスターの顔をふと眺めた。年の割に元気な方といった感じをしているが、それでも口の上のちょび髭や髪の全くない頭などが、マスターの体を通り過ぎていった時間の長さをそれとなく漂わせていた。するとこんな言葉がふと口をついて出た。
「おじさん、若い頃はどんなだったの」
「私ですか……まあこんな感じでしたよ」
「こんな感じって(笑)、頭も?」
「……店を開く前は広告代理店で働いていましたけどね。
 まあでもその頃のことは、ほとんど忘れてしまいましたね」
「……」
 そんなに人は忘れてしまうものなのか。
「……人は一部しかいつも見えない、ってことかな」と僕が呟く。
「ん? 何ですか?」
「遠い将来のことが予想できない子どもと同じで、大人になると遠い過去のことが分からなくなっていくのかなって」
「そうですねえ……」
 客はいつも少ない。手が空いているのか、いつしかマスターは僕の話し相手を来る度にしてくれるようになった。
「一部しか見えなくても、進まなければ何も始まらないんですよ」とマスター。
「え?」
「自分の今いる世界で良く生きるには、後悔をしないことが大切ですからね。
 そのためには自分の好きなように生きる、それだけですね」
「それが難しい! ましてや僕みたいな凡人で、時間のないサラリーマンじゃ」
「凡人は、洗脳です」
「え?」
「みんな、『自分は普通の人だ』と思い込まないと、怖いんですよ。
 『みんな』にとっては、みんながみんな普通じゃないとしたら、大変でしょう?
 でも本当は、それでみんな不幸になっているんですよ。
 まあ、狭い店の回転率を上げる、みたいなもんですよ、常識ってものは。
 用立たずを作って……」
「おじさんの店は回転率を上げなくて楽だね。狭いけど人が来ないじゃん」と言って僕はニヤリとした。
「こら、失礼なことを言う! ハハハッ」
 予想外にマスターは大笑いをした。奥にいた客で、新聞を読む老人の男が無表情にこっちを見るや否やすぐ視線を元の新聞に戻した。

 『グラナダ』を出た後、マスターが言った「自分の好きなように生きる、それだけですよ」という言葉を声を出さずに、口の中でひそかに何回か舌で転がしてみた。
 空恐ろしいような、でも愉快な気持がして、僕はついにその残った暗雲のような心の部分を振り払おうと、その言葉を呪文のように心の中で繰り返し続けていった。

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