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謎の労働運動家・藤井悌の生年が判明したので年譜(暫定)をつくる

 以下の記事で紹介したようにリニューアルされて全文検索可能になった国会図書館デジコレはマイナー人物を調べるのに便利なツールである。今回は私が一時期調べていた謎の労働運動家・藤井悌について新しい情報がないかを調べてみた。藤井については、かなり前に拙noteで紹介したことがある。

藤井のことを調べていると、原田登編『帝国大学出身録』(帝国大学出身録編輯所、大正11年)という私にとって未知の資料に藤井のことが載っていると分かった。この本は帝国大学出身者の経歴を紹介しているが、藤井の経歴を以下に引用してみたい。

藤井悌 東京市本郷区元町二ノ四七
君は東京市本郷区元町に原籍を有し明治十九年四月を以て生る。第四高を経て四十五年東大法学部独法科を卒業直に農商務省商工局に入る。大正四年工場監督官となり、長野県に在勤す。七年軍需局書記官となり、九年財団法人協調会調査課長に任ぜられ中央大学講師を兼ね以て今日に至る。(筆者が読みやすいように必要に応じて句読点を追加した。)

この記述から藤井が1886年(明治19年)に生まれたことが分かった。他の情報は以前にも紹介したことがあるが、時期が不明確な部分もあったので、上記の情報を追加してあらためて藤井の経歴を整理すると以下のようになる。なお、拙noteで紹介してことのある情報は「参照」としてリンク先を貼っておいた。

<藤井悌の年譜>
1886年
 石川県の士族の家に生まれる。(参照
1907年 四高を卒業、東京帝国大学法科大学入学。ドイツ法を専攻。(同期に正力松太郎、重光葵、塚本虎次郎)2回目の期末試験に通らず、留年になる。(参照
1912年 東京帝国大学を卒業。(末広厳太郎、片山哲と同時に卒業。)高等文官試験に合格して農商務省嘱託として勤務。(参照
1915~1917年 長野県で理事官、工場監察官として勤務(参照
1918年
1月 農商務省特許局に勤務(参照
6月 新設された内閣軍需局書記官に異動(『読売新聞』1918年6月4日朝刊より)
1919年 国勢院制度課に勤務(参照
1920年  休職。休職時の役職は国勢院制度課長。
協調会に勤務、中央大学で教え始める。(参照
1921年 中央大学学員会への入会(参照
1922年
1月 退官。その後、ヨーロッパ・アメリカへ渡航。(参照
10月~11月 スイスで柳田国男のもとに滞在。藤沢親雄(注1)からエスペラントを学ぶ。古書店でチェンバレンの旧蔵書を購入。(参照
1923年 帰国(参照
1924年
6月 政治研究会に参加(参照
10月 日本労働総同盟から離脱(参照
1925~1926年 東京商科大学(現在の一橋大学)で講師として社会政策を教える。(福田徳三外遊時の代理)(参照
1927年 中央大学教授(参照)協調会理事長に就任。(1928年4月23日『官報』より)
東京商科大学講師をやめる?(『日本紳士録』31版、昭和2年、32版、昭和3年の藤井の職業より推測)
1931年 4月 電車にはね飛ばされて重傷を負い、死去。死亡時協調会理事長。(参照)余談だが、参照先の情報には藤井の享年に誤りがある。

今回の情報でだいたい藤井の経歴の空白が埋まった。他の名簿を確認することでこの年譜にもっと情報を追加できるだろう。また、『帝国大学出身録』には藤井の写真も載っていた。残念ながら引用することができないようなので、興味のある方はデジコレで閲覧してみて欲しい。(利用者登録なしで閲覧可能)

(注1)藤沢親雄については、神保町のオタ様の以下の記事が詳しい。

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