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大学で教えていた謎の労働運動家・藤井悌

 先日、『随筆』第2巻 第6号(人文会出版部発行, 1927年)という雑誌を購入した。なぜこの雑誌を購入したかというと、拙noteで度々取り上げている労働運動家・藤井悌と交流のあった人物が「藤井悌氏の印象」という特集で文章を書いているのを知ったからである。「藤井悌氏の印象」に文章を寄せた人物のひとりは経済学研究者・福田徳三である。福田徳三は東京商科大学などで経済学を研究する一方で吉野作造と黎明会を発足させ、様々な雑誌に文章を発表するなど研究以外の言論活動も行っていた。以下に福田の「藤井悌氏の印象」を引用してみたい。

○篤学の士 福田徳三 藤井悌君のことは私は何も知りません。御目にかかつたことはあるかなしが、ただ私の洋行不在中商大で私の受持科目の代講願つた由を伝聞して居るのみです。同君の書かれたものは、彼是拝見したことがありますが、誠に得易からざる篤学の方であると拝察して居るのです。(筆者が重要であると考えた部分を太字にした。)

上記の福田の文章によると、福田がヨーロッパへ滞在中に藤井が代わりに福田の担当していた科目を東京商科大学で教えていたようだ。『福田徳三先生の追憶』(福田徳三先生記念会, 1960年)に収録されている「福田徳三年譜(自記)」によると、1925年4月から1925年8月にかけて、福田は第6回万国学士院連合会議やロシアのレニングラード学士院200年祭に参加するために、ヨーロッパに出張していた。そのため、この時期に藤井は東京商科大学で教えていたと推測でき、『東京商科大学一覧, 自大正15至昭和2年』を調べてみると、藤井が社会政策の担当講師であったことが分かった。他の年に発行された同一覧も確認してみたが、藤井の名前は載っておらずあくまで福田が不在時の代理であったことが分かる。

 ところで、なぜ藤井は代理とは言え東京商科大学で教えることができたのかという素朴な疑問が出てくる。以前投稿した以下の記事では、藤井は国家官僚を辞めた後、協調会の職員として働いていたと述べたが、『中央大学学員会名簿』によると、中央大学で講師もしていたようである。1923年(大正12年)発行の『中央大学学員会名簿』では、中央大学学員会への入会が「大正10年4月」になっていることから、おそらくこの時期から中央大学で教えはじめたのだろう。東京商科大学で講師をつとめる前から中央大学で教えていたからこそ福田の代理を任されたのだろう。この時期の仕事が評価されたのかどうかは不明だが、1927年(昭和2年)の同名簿では、中央大学の教授と記載されているので昇進したことが分かる。現在ではまったく話題にされない藤井だが、結構すごい人物であったと言えるだろう。


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