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謎の労働運動家・藤井悌の出身地と経歴

 以前投稿した以下の記事で、柳田国男が国際連盟の委任統治員の任でジュネーブに滞在していた時に交流があった労働運動家・藤井悌に関して紹介したが、その際は詳細の経歴不明とした。しかしながら、その後彼の出身地と経歴に関して少しだけ分かったことがあるので紹介していきたい。

 国会図書館デジタルコレクションでも閲覧できる『社会思想講和』(高原評論社, 1925年)の後記にはこの本の編者である向山敏也は、「本書の著者藤井氏は私の学生時代からの友人であって、その当時本郷の古い寺の一室に共に自炊生活をしたこともある」と述べている。このことから、藤井は東京帝国大学に在籍していたのではないかと推測して、帝大の出身者が記録されている『学士会会員氏名録』(学士会)(以下『氏名録』と記載)を確認してみると、藤井の名前が確認できた。ここから藤井の原籍は石川県で明治45年(1912年)に東京帝国大学を卒業した法学士でドイツ法を専攻していたことが分かる。『戦前期日本官僚制の制度・組織・人事』秦郁彦(東京大学出版会, 1981年)(以下『戦前期』と記載)にも藤井の名前が確認できるが、四高出身とあるので四高から東大に入学したことが分かる。『東京帝国大学一覧』(以下『東大一覧』と記載)で確認してみると、明治40-41年にはじめて藤井の名前が第一回受験生として登場する。これは藤井が東京帝国大学の1回目の期末試験を受験したことを意味しており(注1)、入学は明治40年(1907年)であったようだ。正力松太郎、重光葵、キリスト教無教会主義として知られている塚本虎二と同じ年に入学している。ちなみに、正力とは出身高校も同じ四高であった。『東大一覧』は毎年発行されているので1年ずつ確認していくと、明治41-42年、明治42-43年で藤井は「第二回受験生」と書かれている。理由は分からないが、2回目の期末試験に一回で通らなかったようだ。これによって、藤井は1年後に入学してきた末広厳太郎、片山哲と年次が同じになり、明治45年(1912年)に彼らとともに大学を卒業している。

 大正4年発行の『氏名録』では、勤務先は農商務省商工局となっており、高等文官試験に合格して卒業後国家官僚となったようだ。『戦前期』によると、藤井は卒業と同年の1912年に試験に合格して、農商務省嘱託として配属されている。大正7年発行の『氏名録』では、内閣の軍需局書記官になっており農商務省商工局から異動したらしいことが分かる。軍需局は1918年(大正8年)に内閣の下につくられた組織であるので、新設されたタイミングで異動したのだろう。(注2)『戦前期』によると、軍需局は1919年に内閣国勢院となっており、藤井もここに勤務していた。最終的に、藤井は1920年に退官するが、最終的な官歴は国勢院制度課長となっている。

 その後ヨーロッパへ渡り、1922年にジュネーブで柳田、藤澤親雄(注3)と会う。その後いつごろ帰国したかのは分からないが、大正13年(1924年)発行の『氏名録』では、藤井の住所は本郷になっており少なくともこのころには日本に戻っていたことが分かる。気になるのは勤務先が空欄になっていることだ。上に紹介した記事中にも引用した『近代日本社会運動史人物大辞典』第4巻(日外アソシエーツ株式会社, 1997年)によると、この時期藤井は労働運動に従事していたようである。また、この記事でも紹介したように、『農村社会政策講座講演集』(岐阜県社会事業協会, 1926年)で藤井は「協調会調査課長」とされており、協調会に関係していたことが分かる。大正13年ごろから協調会に関係していたのだろうか。昭和3~4、昭和6年発行の『氏名録』では、協調会が勤務先になっている。昭和7年発行の『氏名録』では、「逝去会員」の欄に藤井の名前を確認できる。この『氏名録』は昭和6年(1931年)9月末までのデータで作成されているので、それ以前に藤井が亡くなっていたことが分かる。Webcat Plusの没年も1931年となっているが、この情報を参照したのだろうか。

 最後に、藤井の経歴を現在私の分かりうる範囲で簡単にまとめると以下のようになる。

石川県の士族の家に生まれる。

1907年 四高を卒業後、東京帝国大学法科大学入学。ドイツ法を専攻。第二回試験に一度落ちている。(簡単に言うと、二回生時にダブっている。)

1912年 卒業。高等文官試験に合格して農商務省嘱託として勤務

1918年 内閣軍需局書記官

1919年  国勢院制度課に勤務

1920年  退官。最終的な官歴は国勢院制度課長

その後、ヨーロッパへ渡る。(留学か?)1922年にジュネーブで柳田国男、藤澤親雄と会う。柳田の家に滞在し、藤澤にエスペラントを教えてもらう。

1924年 政治研究会に参加。このころ協調会にも関係?

1926年 協調会に勤務
1931年 死去

藤井は国家官僚であったので、当時の新聞、官報、憲政資料などを利用してさらに経歴を調べることができると思われる。少なくとも、私が今年結構調べていた謎の人物・平澤哲雄よりは調べるきっかけをつかみやすいように見える。

(注1)東大の当時の試験制度に関しては、『東京帝国大学一覧』(從大正元年至大正2年)を参考にした。

(注2)『東京日日新聞』1918年6月6日より(神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 軍事(国防)(6-020))より。この記事中にも、軍需局の書記官として藤井の名前が確認できる。

(注3)藤澤親雄に関しては、神保町のオタさんのブログの以下の記事が詳しい。この年譜をみていて意外と藤澤と藤井は近くにいたのではと思った。


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