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柳田国男と謎の労働運動家・藤井悌

 最近、『柳田国男全集』別巻1の年譜を調べていたら以下のような興味深い記述を発見した。

(大正11年(1922年)47歳)一〇月二〇日 (中略)夜、自宅に藤沢親雄が来て、労働運動家の藤井悌にエスペラントを教えるのを見る。藤井は、この日から一一月二日まで泊まることになる。この間、日本好きのジャン・ロミウから、古書店にチェンバレン旧蔵の和書が出ていることを聞き、藤井と共に見に行くが一冊のみしか残っていなかった。売れ残っていた書入れのある『日本口語文典』は、藤井が購入したので、これでやっと日本の日の光を見たと思う。(筆者が重要であると考えたことを太字にした。)

この時期、柳田国男は国際連盟の委任統治委員の仕事をしており、ジュネーブに滞在していた。上記の引用部分の前半はこの時期の柳田の日記である「端西日記」がもとになっており、これは『定本柳田国男集』第3巻に収録されている。上記で強調したように、ここでは藤沢親雄と藤井悌という2人の人物に注目したい。藤沢親雄は、エスペラントの関係者であるとともに、いろいろな仕事をしていたようである。以下の神保町のオタ様の記事が詳しかった。

一方で、藤井悌に関してはウェブで調べてみたもののほとんど情報が出てこなかった。『近代日本社会運動史人物大辞典』第4巻(日外アソシエーツ株式会社, 1997年)を調べてみると、以下のように立項されていたので以下に関係ある部分を引用したい。

藤井 悌 ふじい・てい ?-? 労働運動家 元政治研究会調査委員
(前略)23年12月にうまれた政治問題研究会は、会合者の範囲を拡大して政治研究会を結成、24年6月28日、東京市芝協調会館(後の中央労働会館)において創立大会を開いた。賀川豊彦が開会挨拶を担当、布施辰治を議長とし、島中雄三が経過報告をおこない、規約・宣言・決議などを満場一致で可決した。この会の役員は調査委員(大山郁夫以下24名、幹事三和一夫、青野季吉)、執行委員(賀川豊彦以下12名、幹事島中雄三)、会計委員(山崎今朝弥以下3名、幹事福田秀一)であり、藤井は調査委員の中にその名をつらねている。(中略)10月7日の総同盟(筆者注:日本労働総同盟)臨時大会では左派=評議会派(筆者注:日本共産党を中心とした勢力)が優勢となり、島中雄三、高橋亀吉、奥むめおらは中央委員を辞任、藤井もこの辞任組=右派の中にいた。(後略)(筆者が重要であると考える部分を太字にした。)

立項されているが、藤井に関する情報はほとんどない。生没年も不明であった。藤井が「政治研究会」という団体に所属しており、後に退会したことは分かった。

 さらに調べていると、Webcat Plusに藤井が書いた本の情報があるのをみつけた。以下の著作があったようだ。また、Webcat Plusによると、藤井の没年は1931年であるようだ。

社会思想講話 高原評論社 1925年
ナポリの浮浪児 人文会出版部 1927年
社会科学叢書第15編 日本評論社 1929年
社会科学叢書第23編 日本評論社 1929年
英国労働党叢書 千倉書房 1930年
精神と世界 日本評論社 1931年(カール・カウツキーの訳)

藤井の経歴を推測できそうな情報が上記の著作の中にあるので、いくつか取り上げてみたい。『社会思想講和』は国会図書館デジタルコレクションで閲覧可能だが、この本は高原評論社という長野県伊那町にあった組織が発行所となっている。長野県の出身なのだろうか、もしくは長野県の労働運動に関係していたのだろうか。次に藤井のヨーロッパ滞在時の印象を綴った日記である『ナポリの浮浪児』をみていきたい。この本には日本からの滞在者の名前はすべてイニシャルで書かれているが、柳田と思われる人物も登場する。以下に引用してみたい。

(前略)スイスで大患に罹つて、親切な先輩のY氏からくれぐれも戒められながら隠れるやうにしてベルリンへ引返した私には、今更のやうに、冬外套を霙に打たれながらしよぼしよぼと道を行く自分の姿が顧みられた。(後略)(筆者が重要であると考える部分を太字にした。)

柳田は藤井に気をつかっていたようだ。柳田の気づかいにも関わらず、藤井はベルリンに出発しており、このことは柳田の「端西日記」にも書かれている。私が少し調べた限りでは、柳田に関する記述はこの部分以外確認できなかった。年譜には、藤井は藤沢にエスペラントを教えてもらったことが書かれているが、藤井の日記によると、藤井は現地の人にもエスペラントを教えてもらっていたらしい。柳田もこの時期にエスペラントに関心(注1)を持っていたが、藤井とはエスペラントという共通の関心があったようだ。

 労働運動関連では、国会図書館デジタルコレクションで調べてみると、『農村社会政策講座講演集』(岐阜県社会事業協会, 1926年)に藤井が「協調会調査課長」という役職で文章を書いているのをみつけた。協調会は労働運動の活発化に応じて渋沢栄一、徳川家達を中心に設立された組織だが、藤井はこの組織にも関係していたようである。

 藤井は労働運動だけでなく宗教にも関心があったようだ。『社会思想講話』によると、この本を発行した向山敏也と学生時代に寺で共同生活をしていたようである。これだけだと宗教に関心があるかどうかは分からないが、藤井は西田天香の設立した一燈園の機関誌『光』に以下の記事を投稿している。この雑誌の総目次はウェブ上で閲覧できるので確認できる。

我を嘲る歌 3号(1921年)
蹌踉記(古き日記帳より) 3号
社会改造の準備――ホブソン氏のナシヨナル・ギルヅの簡単な紹介―― 4号
蹌踉記――昔の日記帳から―― 5号
半島の漁村から――松下兄へ―― 8号(1922年)
或る日のいのり 10号
詩二篇 11号
榛名丸から 17号
虫のいい社会――しんさい雑感のうち―― 23号(1923年)
冬の日の光(ナポリ日記のうちから) 30号(1924年)

以上に藤井に関して今回調べてみて分かったことを適当に述べてみたが、まだまだ分からないことの方が多い。今後も分かったことがあれば補足していきたいと思う。

 そもそも、なぜ私がこの藤井という人物に関心を持ったかというと、柳田の初期の社会主義や労働運動への関心や関係性を考える一例になるのではないかと考えたからである。柳田は朝日新聞時代に無産政党への関心を示しているが、この藤井との交流は柳田に何かもたらしたものがあるのかは気になるところだ。

(注1)柳田とエスペラントに関しては、以下の論文に詳しく書かれている。


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