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南方熊楠研究の最前線―志村真幸さん『未完の天才 南方熊楠』を読んで

我々熊楠研究者は、しばしば「熊楠って何をしたひとなんですか?」と質問されるが、簡単には回答できない。右に記したようなことをいろいろ並べるしかない。思想家とか科学者とか政治運動家とかいった、個別の分類にはあてはまらない人物。それが熊楠なのである。/そしてもうひとつ困るのが、「熊楠って、結局、何をなしとげたんですか?」という質問だ。熊楠はありあまるほどの才能をもっていた。とてつもない努力家でもあった。しかし、熊楠の仕事はほとんどが未完に終わっているのである。(後略)

「はじめに」より

 『未完の天才 南方熊楠』(講談社現代新書、2023年)は上記のような問いかけから始まる。最近、私は労働している場所で南方熊楠のテキストやその研究書を読むことがあるが、同じ質問をされることも多いので、この質問に非常に共感した。ちなみに私はこの問いに対して「19世紀末から海外でも活躍した博物学者です。」と答えるようにしている。余談だが、最近NHKの「偉人の年収  How much?」で熊楠が特集されたため、注目度が高まっているように思われる。

 本書のすごいところは、熊楠の紹介に最新の研究成果を盛り込んでいるという点にある。近年の熊楠研究はテキストの読解だけでなく、熊楠とその関係者の努力により残された膨大なアーカイブ(原稿の草稿、日記、抜書(ノート類)、蔵書とその書き込み、書簡など)の分析や今まで注目されていなかった人物との関係性の検討(注1)などがメインとなっているが、本書はこれらの成果が踏まえられている。たとえば、今年の冬に南方熊楠顕彰館の展示で熊楠と同時代に『ノーツ・アンド・クエリーズ』に投稿していた人物として紹介された佐藤彦四郎のことも述べられている。

 この最新の研究成果を踏まえた本書の特徴は2点あると思われる。1点目は資料分析に基づいた「熊楠伝説」の再検討である。「10ヶ国語以上を理解できた」(多言語伝説)、「浩瀚な書物をすべて筆写して記憶した」(筆写伝説)、「ほぼ睡眠せずに研究に打ち込んだ」(不眠伝説)など熊楠に関する逸話が多くあることは私があらためて言うまでもないが、これらの逸話のいくつかを読み解いていく。熊楠の多言語伝説は彼の蔵書、その書き入れ、日記の分析によって、筆写伝説は実際に書き抜かれたノートの読解によって再検討がなされている。この地道な実証研究の集積が本書の魅力である。そして、時折り挿入される著者の研究の過程での実体験に基づいた苦労話からも実証研究の大切さや大変さが伝わってくる。なお、本書でも紹介されているが、上に挙げた不眠伝説も近年日記の詳細な研究によって再検討が必要であることが分かっている。これらの「熊楠伝説」がどのように形成されたのかは今後の課題であろうか。

 2点目は熊野の「アウトプット」から「インプット」に注目点を転換したところである。本書によれば、抜書の分析によってテキストに引用された(アウトプットされた)のは氷山の一角で、使用されなかった情報(インプット)が膨大にあることが分かってきたという。熊楠は独自の思想や文体が魅力的なためテキストに注目が集まるが、熊野の思想を理解するには、このようなインプットに注目する必要があると本書は指摘する。この転換によって、あらためて強調されるのは熊楠の知の「コレクター」としての一面である。私の例で恐縮だが、私は古本が好きで珍しい本を購入(アウトプット)してnoteで紹介する(インプットする)ことが多いが、購入点数が多く十分に紹介しきれていない本も多い。ただ、自分の生活に影響があるわけでもなく自分が満足しているのでまあいいかと考えている。読書人の「積読」もこの感覚に近い。熊楠もこの感覚と似たように考えていたのだろうか。いずれにしても、古本を蒐集している私としては熊楠を「コレクター」として捉え直した点におおいに共感した。

 また、熊楠を「未完」と捉えたことは意味合いは異なるが、柳田国男の「未完」を連想させる。すでに多くの論者により指摘されてるが、柳田は民俗学を体系化させた実績を持っているが、論考の中で断定を避けて結論を先送りにする特徴があり、「未完」性が含まれている。熊楠と柳田は山人や民俗学の解釈などを相違から仲違いしたことが知られているが、両者には「未完」という共通性もあったのではないかと考えた。

 以上の2点が本書の大きな特徴であると私は考えている。本書は熊楠をまったく知らない方向けでなく、ある程度熊楠のことを知っており、その理解をアップデートしたい方向けであろう。熊楠に関心のある方にはぜひ本書をおすすめしたい。

 終わりに本書の最後で提起された問題について紹介したい。本書では熊楠の「未完」を通して研究者にとって「研究の完成」、自分の研究の終わりとはどういうことか?という問いかけがなされている。この問題提起を私の立場に引きつけて考えてみると、研究者の場合には引退ということがあると思われるが、私の掲げる「調査趣味」には終わりや引退はあるのだろうかという疑問が出てくる。今調べていることが飽きれば調査対象を変えることになるので、終わりがないように思われる一方で「調査趣味」に飽きて終わってしまう可能性も少なからずある。そして一度終わっても調べたいことが出てくれば復帰するということもできる。完成しないかもしれないし、終わったとしても再び戻るかもしれない。この柔軟性が「調査趣味」ではないかということを本書の内容から脱線しながら考えた。

(注1)私の調べている平澤哲雄や吉村勢子もこの潮流にあるのだろうか。

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