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謎の男・平澤哲雄が結婚した吉村せい子と吉村家について

1. はじめに

 以前の記事でも紹介したように、次世代デジタルライブラリーという検索ツールは今まで自分の知らなかった資料にアクセスすることができ非常に有用であるが、この検索ツールが特に有用なのは有名人の周囲にいた半有名人を調べる時であると私は考えている。今回は私が調べている謎の男・平澤哲雄と結婚した吉村せい子とその親族に関して、次世代デジタルライブラリーを使用して調べていきたい。なお、平澤哲雄、吉村せい子に関しては、以下の記事にまとめているので参照していただきたい。

2. 吉村せい子

 吉村せい子に関しては、ブログ「南方熊楠のこと、あれこれ」様の以下の記事で紹介されているように南方熊楠の書簡にせい子の簡単な情報が記載されている。この記事で紹介されている南方の書簡からの情報によれば、せい子は「時事新報」に小説を書き青鞜社に関係しており、1939年に亡くなったという。親族として吉村多吉、吉村哲郎(南方によれば、せい子と平澤の子供)の名前が述べられている。

また、以下の記事によると、雑誌『婦人画報』の主幹もつとめていたようだ。せい子は文筆活動をしていたと思われ、当時かなりの知識人であったことが分かる。「読売新聞」1922年10月3日朝刊に「カツポレ」という欄で、平澤の妻としてせい子のことが「夫人は哲夫(著者注:哲雄の誤記だろう)君より二つ三つ年上だけに音楽と生花の自宅教授をして良人をいたわって居られる、その住宅かまた日本橋中洲のもと藝者屋か何かであった頗る粹造りの家だと云う」と述べられており、せい子が上流階層の出身であったことを推測させる。

次世代デジタルライブラリーで調べてみると、『婦人社交名簿』(日本婦女通信社、1918年)にせい子のことが載っており、この名簿によれば、せい子は大日本婦人慈善会の評議員をつとめており、実業家吉村多吉の妹であるという。吉村多吉の名前は上述のように南方の書簡にも登場している。『婦人宝鑑』(大阪毎日新聞社、1923年)には、「現代の代表的婦人」としてせい子のことも紹介されており、彼女の経歴も載っているので以下に引用してみたい。

吉村せい子 東京で明治二十四年(1891年)に出生。府立第一高等女学校卒業後、日本女子大学、双葉会英語学館、その他五六の手藝学校に学び、現在は真自然派花道の教授をする傍ら、筆を執る。現住所、東京市日本橋区中洲河岸八号地。

上記の情報はおおむね南方が書簡の中で述べている情報と同様である。せい子の住所は以下の記事で紹介した南方から平澤に送付された書簡の住所と一致しているので、『婦人宝鑑』のせい子は私が調べている平澤の妻であったせい子で間違いないであろう。

 興味深いのは、永井荷風が『断腸亭日乗』で述べていたように、せい子は平澤よりも年上であったことである。せい子は読売新聞にもいくつか記事を投稿しており、自分の教養・知識や人脈を自慢したような記事もあるが、それらの記事は多少の誇張があるにせよまったくの嘘ではないということがせい子の経歴から言うことができるだろう。

 平澤の伝記的な情報の観点から気になるのは、平澤とせい子の結構した時期であるが、残念ながら上記に引用した名簿からは分からない。『婦人宝鑑』には、結婚している女性に対しては「○○夫人」と記載されている人物もいるが、せい子は「平澤哲雄夫人」とは記載されていない。上述の読売新聞の記事からこの名簿の出版された1923年3月には、せい子と平澤はすでに結婚していると考えられる。記載されない理由があったのだろうか、もしくはそこまで調べなかったのだろうか。

3. 吉村多吉

 上記に引用した『婦人社交名簿』によれば、せい子は吉村多吉の妹であるという。この人物に関しては『人事興信録』に載っているので、『人事興信録』データベースから多吉の経歴を以下に引用してみたい。

吉村多吉 貿易商 東京府在籍 母きく 嘉永五、八生、千葉、杉田六之助長女 君は東京府人先代多吉の二男にして明治十四年一月を以て生れ同三十年家督相続と共に襲名して前名喜太郎を改む貿易商を営み曩に東京製炭会社取締役たり家族は尚妹せい(明治二四、七生)弟秀吉(同二六、一一生)あり(東京、本所、縁町四ノ二〇(後略)(『人事興信録 第8版』(1928年)のもとの分奏を引用)

多吉は貿易商を営む実業家であり、多吉は先代から受け継がれた名前であったことが分かる。生年が上記に引用した『婦人宝鑑』の情報と一致しているので、「妹せい」が吉村せい子のことであろう。

4. 吉村新蔵

 ところで、せい子の親族と思われる人物のひとりに呉服店を経営していた吉村新蔵がいることを上記の「忘れられた哲学者・平澤哲雄の妻の家族」で紹介したが、この人物とせい子はどのような関係であったのだろうか。

 吉村新蔵のことを次世代デジタルライブラリーで調べると、『東京商工録』(東洋出版協会、1911年)に新蔵の名前が載っており、呉服店を経営しており、明治4年12月生まれであることが分かる。さらに調べると、『織物商要鑑 関東之部 其ノ一』(信用交換所東京局、1931年)に新蔵のことが載っており、以下のように紹介されている。

吉村新蔵氏 本所区縁町二丁目 商号 よしむら呉服店 年商 な 開業 明治二四年 店員 七人(中略) 当店は先代新蔵氏が明治二四年の開業に係る先代は市内本郷区野々村呉服店に約十年間奉公し退店後知人なる縁町四ノ二〇資産家(当時洋服商)吉村多吉氏の婿養子となり同氏の後援を得て現所に開業順調に進展し来りしが大正九年病没したれば当主継承し未亡人たま女実務を担当する事となりたるものなり(後略)

ここから分かるのは吉村新蔵には先代がおり、先代の新蔵は多吉の養子に入ったということである。先代の新蔵は大正9年(1920年)に亡くなっているので、上記の「忘れられた哲学者・平澤哲雄の妻の家族」で取り上げている平澤とせい子が1924年のヨーロッパ外遊中に留守中の連絡先として指定した「吉村新蔵氏」(注1)は先代でなく上記に引用した人物であろう。『東京織物人事要鑑』(東京信用交換所、1931年)には、この人物の経歴が以下のように紹介されている。

吉村新蔵氏 明治三十六年二月二十一生(中略)氏は先代新蔵氏の二男に生る、大正九年先代病没するや年少にして相続襲名し営業は実母たま女補佐の下に経営以来順調に進展し現在に及ぶ、因に氏は慶大理財科出身なり(中略)【家庭】母たま女=明治九年四月十五日生。妻てい女=明治三十一年十一月一日生。(後略)

この経歴を考慮すると、明治4年12月生の新蔵が先代であろう。『社交要録』(ジャパン・マガジーン社、1918年)に先代の新蔵の名前が確認できるが、出身地が福井県となっている。おそらく先代の新蔵は多吉のもとに養子に入ったのだろう。

5. 吉村多吉と吉村新蔵の関係は?

 上記で紹介した情報をあらためて整理して多吉と新蔵の関係性を検討してみたい。実業家の多吉は1881年に誕生、父親が先代・多吉であり、1897年に家督を相続した。先代・新蔵は1871年に誕生して「多吉」のもとに養子に入り、1891年に吉むら呉服店を開業した。彼の子供である新蔵は1903年に誕生した。この情報を考慮すると、おそらく先代・新蔵が養子に入ったのは先代・多吉であろう。この場合、せい子からみると先代・新蔵は義理の兄、新蔵は甥となる。もっとも先代・新蔵が養子に入ったのは先々代の多吉である可能性もないわけではないので、この点は今後も継続して調べる必要があるだろう。

6.  おわりに

 今回次世代デジタルライブラリーを活用して吉村せい子と吉村家のことを調べたが、想像よりもはるかにいろいろなことが分かった。冒頭で述べたように、このツールを活用すると今まで分からなかったことを調べることができる可能性があるので、引き続き活用していきたい。

(注1)『読売新聞』1924年2月22日朝刊より。「忘れられた哲学者・平澤哲雄の妻の家族」も参照。


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