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忘れられた哲学者・平澤哲雄の妻の家族

 以下の記事を中心に取り上げてきた忘れられた哲学者・平澤哲雄はこの記事の年譜でも指摘しているように1920年代前半に吉村せい子という人物と結婚していたことが分かっている。

吉村せい子という人物に関する詳細は不明だが、南方熊楠とも交流があったということが分かっている。拙noteでも何度か紹介しているが、以下の記事が詳しい。

平澤と吉村は、1924年3月から11月にかけてヨーロッパ、エジプト、インドなどを外遊していたことが分かっているが、『読売新聞』1924年2月22日朝刊で留守中の連絡先に「吉村新蔵氏」が指定されているのが確認できる。ここに登場する吉村新蔵がせい子とどのような関係であったかは残念ながら断定できない。『日本紳士録』(交詢社, 1927年)によると、吉村新蔵が「吉むら呉服商」を経営していたことが分かる。この紳士録上の吉むら呉服商の住所は「本所、縁、二ノ二一」になっている。『読売新聞』1924年2月22日朝刊の連絡先も「本所縁町二ノ二一」であるため、せい子の留守中の連絡先に指定された「吉村新蔵」と吉むら呉服商を経営していた「吉村新蔵」は同一人物であるとみてよいだろう。

 新蔵がせい子の親族で呉服屋を経営していることまでは分かったが、最低限新蔵がせい子から見て親族内でどのような位置にあったのかまでは調べたいところである。

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