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#67 『地方』と『地元』の差分

2024年6月某日

先日、久しぶりに実家に帰る機会があった。到着して早々は、かつての生活に対する懐かしさが込み上げてくるし、両親も気持ちやさしい。しかし、数日たてば、「風呂に入れ」「飯はどうするんだ」という、ありがたいご指摘を受けてしまう。筆者はすでに良い年なので、そっとしておいてもらえると助かるのだか、親子関係というのはいつまでも相対的なもので、「関係性」があまり変化しないことについて、ありがたさをグギギと噛み締めることとなった。

さて、実家に帰るとつくづく感じるのだが、「地元」というのは、とても特殊な概念だと思う。筆者自身、「地方」を専門に仕事をしており、職業柄、さまざまな「地方」を訪れる機会がある。また、旅行も好きなので、大都市から田舎まで、いろんな「地方」に関心がある。「地方」を愛してやまないからこそ、なおさら「地元」の特殊性が気になる次第である。

筆者は「地方」の出身者であるから、実家のある「地元」についてもまた「地方」である。具体的には、中核市クラスの地方都市の郊外の団地が自らの「地元」となるわけだが、あまりこの地域を自身の仕事として取り扱う「地方」と捉えることができていない。有り体に言ってしまうと、「地方」の一部であるにも関わらず、正直、あまりワクワクしない。なぜだろう。

思うに、「地元」は「地方」の一部である(ことが多い)が、特別なファクターが作用していると考えられる。このファクターの影響で、筆者は「地元」を「地方」としてフラットに捉えられていないのだろう。具体的には、「慣れ」という要素の中に、ヒントがあるように思われる。少し分解してみよう。

地域における「慣れ」の要素について、ポジティブな要素とネガティブな要素に分解してみる。「慣れ」のポジティブな側面とは「安心感」みたいなものだろう。地元の慣れ親しんだ風土、関係性などは、自らの居場所をある種「規定」してくれるものであり、「楽といえば楽」な状況を生み出してくれる。この要素が、どの程度効用として作用するかは個体差があるだろう。

一方、「慣れ」のネガティブな側面とは「飽き」みたいなものだろう。平凡で変化に乏しい地元の景観、人間関係は、ときに面倒くさく、創造性を奪われているような感覚を覚えるかもしれない。「こうありたい」自分があるにも関わらず、硬直的な関係性が、「俗っぽい立ち振る舞い」を強要してくることは息苦しい環境ともいえるだろう。この要素もまた、どの程度負の効用として作用するかは個体差があるのだろう。

地域活性化の施策として、さまざまな「人口の社会減対策」が実施されているが、多くの人々(特に若者)の流出抑制や、Uターンなどを促進するならば、マクロな施策とみならず、前述した「個人的な情緒」に向き合うことが、一定必要だと思う。「個人的な事情」に向き合うことなく、福祉的な充実や、多少の経済的なインセンティブを設けたところで、効果は限られるかもしれない。

アンケート調査のみならず、「地元」ゆえの良さと、「地元」ゆえの悪さについて、心理学的なアプローチを活用しながら、「個人的な問題」について、解像度高く捉えた先にある施策検討もまた、新しい気付きがあるかもしれない。すぐには一般化できないだろうけど。

ほなら。

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