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【第4話】マーケティングセンス:データの向こうにある人の喜怒哀楽

僕がこの考えに至ったのは、いつからだろう・・・? その起源は、ロジカルかつエモーショナルな思考・言語・文化をもつフランスで独り暮らしをしていた頃に、浴びるように触れ合ったフランス人の先生や友達、そして、ヨーロッパの友達との数々の接点にあるような気がするが、その後、仕事の中で経験していったことのなかで、開花されいったのだと思う。今、マーケティングやブランディングの仕事をしている中で、最も大切にしていることが、この「データの先にある人の喜怒哀楽」が見えた状態をつくるということだ。なんとなく賢そうな人たちが、「データドリブンなマーケティングというものが最も大切だ」ということがよく言われている。が、、、実は、、、僕は、懐疑的だ。本当は「データをどのように読んでいくか?」ということが重要で、その際、データの向こうにある「人の喜怒哀楽」が想像できている状態を自分のなかにつくれていること、つまり、自分が見てきた「あの時の、あのシーン」に紐づいた上でイマジネーションが働いている状態。これこそが重要だと確信している。それがない中でデータをいくら分析しても人が振り向くような結果が生まれる可能性は低い。最善を尽くしてできることは、現状の小さな改善だ。それはそれでとても大切なことである。一方で、そもそもVUCAの時代(=不安定で不確実で不透明で曖昧な時代)では、現状の改善をし続けても、その寿命や未来が長くなったり明るくなったりすることはないと思う。データをエクセルで上手くまとめてきれいなグラフにして、小数点やパーセンテージ、そして、CPA(cost par aquisition)、CPC(cost par click)といった英語3文字やカタカナ英語、そして、漢字の「音読み」の単語を沢山なれべて話をする人が多い。彼らがやっていることはマーケティングではなくセールスプロモーションで、そのスキルは非常に高い。今まではそれでよかったかもしれないが、VUCAの時代=「役に立つ」から「意味がある」へのシフトが必須になってきている時代(※1)、「はっとさせられること」「振り向かされること」「気づき」「感動」が生まれるような価値創造をしていくことが、マーケターの役割になってきているのは間違いない。プロモーションは短期的に目の前の数字を上げるためのカンフル剤。乱発すると消耗戦を強いられることになる。今の時代に求められているのは「景色が一変するような打開策」を生み出すことだ。その会社や商品が誰にとってどのような意味をなしているかが実感できる状態を「共感」と「大胆さ」によってを生み出すマーケティングやブランディングを通じて初めて生まれるものだ。僕は実体験を通じてそう思う。それは誰に何と言われようと、僕にとって永遠の真実だ。デジタルプロモーションに長けたプロフェッショナルと真のマーケターがタッグを組めば、明るい未来をつくっていくことができる。そう思う。

※1:「ニュータイプの時代」で著者の山口周さんが言っていることを参考に。

僕自身がマーケティングやブランディングの仕事をする際は、「世界でいちばん大切にしたい、たったひとり」を見出し、自社や商品の中にある「伸びしろ」をその「たったひとり」の生き様に最も共感されるポジショニングや見せ方をしていくということに尽きると考えている。2020年1月上旬にラスベガスで開催されていたCES2020(世界最大級の家電やテクノロジーの展示会)でP&GのCEOがセミナーで話していたことが印象的だ。ファブリーズがどうしてヒットしたのか?という話の中で、「テクノロジードリブンなデータだけでマーケティングをすることは不可能で、むしろ、観察データ(=観察情報=観察してみたこと)が鍵になる、ということを言っている。ファブリーズはもともとは「部屋の匂いを消す」ものとして市場に出たが売上が伸び悩んでいた。そこで使用量や頻度が多いユーザーのお宅に行って観察したところ、ソファーやカーペットなど「洗えないもの」にファブリーズを使用していることが分かった。そこから「ファブリーズで洗おう」という展開が生まれ、一気に数倍の売上を上げる大ヒット商品になったそうだ。ファブリーズを「空気の匂いを消すもの」から「洗えないものを洗うもの」という価値に変換している。翻訳して意味を生み出している。莫大な洗剤市場やクリーニング市場を侵食して、新しい市場を創ることに成功している。

「世界でいちばん大切にしたい、たったひとり」「伸びしろ」「翻訳する」「意味をつくる」この組み合わせが価値をつくり、新しい市場さえもつくってしまう。それができれば、CPA、CPC、コンバージョンなどは、結果として生まれるものであり、勝負はその前のところにあるということに気づく。僕自身、その考え方で業績を何倍かに伸ばしたり、新しい市場をつくってきた。何度も、しかも全く違う業界で成し遂げてきたので再現性もある。

たとえば、1つ2つの例を挙げると、、、「結婚式」を「小さな奇跡が生まれる人生で最高の1日」に。「靴下を履くものから贈るもの」にといった具合に、翻訳して意味を創った。その際にいちばん参考になるのは、数字などの定量データだけではなく、自分の目で見たり聞いたりした記憶の中にある「あの時のあのシーン」「あの人のあの言葉」だ。

T&G(結婚式の仕事)では、お客様のご宅にお伺いする機会が何度か、、、何度もあった。そこでお客様から「ほんとうは、、、のに。」「そもそも、、、ですよね。」という話をよく聞かせていただいた。そのようなお話をいくつも聞かせていただいているうちに、「なんで日本人はなんで結婚式を大切にしているのだろう?」ということの答えが見え隠れしたものだ。「ありがとう、愛してる、ごめんなさい」が素直に言えるからこそ深まり広がる「絆」。それが結婚式の本質だということを教えてくださったお客様の方々。本当にありがたい存在だった。

突拍子もなく人と違うことをしてしまうタイプの僕は、Tabio(「靴下屋」を全国展開している会社)にジョインする前、約2月半間かけて「ひとりミステリーショッパー」を敢行した。仙台から名古屋までの「靴下屋」のお店に行き、接客を受けて靴下を購入し、それをレポートにしていった。すべて自分が足を運び、接客を受けながらお買い物をする。もちろん素性は明かさずに。当時3歳だった長女と妻も、その旅の一部の道づれに。ショップスタッフの方々にいろいろ質問したり、お店にいた他のお客様の会話をそれとなく聞いたり、どのような人がどのような商品を手に取っているか見たり、、、記憶に焼き付けていった。たとえば、「1足700円以上する靴下をもらったら、悪い気しないな。たった700円でも」とか、「靴下のギフトだったら、断られることないな」とか、「靴下だったら、洋服ほど好みとかサイズとか気にしないでいけるな」とか、、、そういうことに実感として気づいていく。そもそも、僕自身が108店舗(だったかな)に行って靴下を、たぶん300足ぐらい買ったから、、、自分や家族では使いきれなく、本当にたくさんの人にあげた。そして、どんな人からもとても喜ばれた。そんなこんなで「空を飛ばせてくれたお父さんの足へ。」という展開が生まれることになる。(この話は奥が深いので、いつかまた詳しく書きたい。)余談だが、Tabioの靴下は奈良県や淡路島などの靴下工場で職人さんが丁寧に編み上げているもので、本当に履き心地が良い。フィット感も強すぎず弱すぎず抜群で、一度履いたら病みつきになる。今も僕は毎日Tabioの靴下だ。

新卒で入った電通には7年間在籍した。優秀な先輩や後輩からたくさん学ばせてもらった。いや、盗んだ。営業に在籍していた時は、部長のSさんを筆頭にほぼ全員がB型という中で、A型の僕は必死だった。群を抜いて成績が良い営業部だったこともあり、部長が引っ張ってくるマーケティングやクリエイティブのスタッフのレベルが半端なかった。マーケティングやブランディングの領域では有名で実績もお持ちで、現在もご一緒させていただいている田中洋さんや丸岡吉人さんに出会ったのもその頃だ。

クリエイティブでは、サントリーBOSSなどを手掛けていたSさん、アメリカの缶スープの日本市へのローンチングでご一緒したS子さん、お酢の会社の仕事でご一緒したKさん、プロモーションでは、今はドローンの会社の社長をしているTさん、、、と、凄い方々とご一緒させていただいた。営業マン(=プロデューサー機能をするのが優秀な営業マンと言われる)として未熟だった僕は毎日毎日大変だった。でも、、、刺激と学びに溢れていた。

その中でも忘れることができないのは、がクリエイティブディレクターのS子さんだ。彼女は、数年後に「Stay Happy.」なんていう手紙を僕にもくれて電通を辞めて超一流の外資系のクリエイティブブティックに行くのだが、本当に大切なことを教えてくれた。彼女と初めてまともな会話をしたのは、アンディーウォーホールの絵に出てくるスープの日本市場のローンチングキャンペーンをどの代理店にするかを決める競合プレゼンのオリエンテーションから会社へ戻るタクシーの中だった。6つか7つぐらい先輩の彼女は物静か感じの人で、後部座席で隣にいた僕に、「美濃部くんさー、クライアントの〇〇さんは商品の良さはどういうところだと常日頃言っているの?」とソフトでちょとハスキーな声で聞いてきた。僕は気を聞かせて、自分の見解も含めて「〇〇〇〇〇だと思います。」と答えると、「あなたの意見を聞いているんじゃいの。〇〇さんが言っていることをそのまま言って。」と、冷淡なトーンで一刀両断だった。凄みを感じた。「第一次情報」が重要だということを言っていたのだと思う。そんな彼女は神がかっていた。「美濃部くんは、今日、何時まで会社にいる?」と降り際に聞いてきた。「・・・多分、10時ごろまではいます。」と答えると、「じゃあ、それまでには席に行くから。」と言って、彼女は去っていった。17時ごろだった。そして、約5時間後の22時ごろ、彼女が僕の席にやってきた。フェルトペンで大きめの文字で書かれたA4の紙30枚ぐらいの束を、僕に手渡した。その中には2種類の絵コンテ風なものまで入っていた。「これ、プレゼンだから。」「・・・・・」僕は意味が分からなかった。「私、明日から海外で撮影なの。帰ってくるのがプレゼンの2日前だから、プレゼン資料渡しとくね。」と言い残して去っていった。翌日、部長に一部始終を話すと「ありえないだろ。」と言って、マジ切れしていた。プレゼンまで2週間。マーケの人たちと一緒にホームユーステストなんかもしながら顧客分析などもしながら企画を創っていくのだか、驚くことに、マーケと残されたクリエイティブの人で2週間かけて作っていった企画は、S子さんがオリエン直後に5時間でつくった内容とほぼ同じだった。そして、競合プレゼンには圧勝してCMを制作し、その缶スープは大ヒット。

S子さんから「お疲れ様会やるから来る?」と声をかけてもらい、彼女が運転するFIATのオープンカーに乗せてもらい聖路加タワーから白金まで行った。彼女はお世辞にも運転が上手な人ではなかった。マニュアル車だったこともあり、発進やギヤチェンジのたびに僕らは前後に大きく揺れた。助手席の僕の右足はブレーキを踏むようなしぐさを何度もしていた。赤信号の時に僕は話しかけた。「S子さんは、どうしてオリエンの後すぐに企画がつくれたのは、なぜ?」「私、いつもいつも見てるし、いつもいつも考えてるから、オリエンの聞いてる時、聞きながら同時に企画してるのよ。」その話を聞いて、当時の僕は意味がわからなかった。どうしてそんなことができるのかを聞くと、赤信号で止まるたびに、僕に教えてくれた。本屋に並んでいる雑誌はほとんど目を通していて、都内のほとんどの街に繰り出して見歩くことを常日頃からしていたり、、、仕事の時間以外で、情報をインプットすることを彼女は常にしていた。当時、僕は26歳。そのころから僕は仕事も遊びも混ぜ混ぜで、とにかく自分の目で見た情報を記憶にストックするようになっていった。「仕事を仕事と思ってやっていたら、作業になってしまって仕事にならない。生き様とおもってやったら、仕事になる。」そんなことを考え始めたのは、その頃だった。

もともとマーケティングの仕事をしたかった僕は、無理を言って営業局からマーケティング局に異動をさせてもらった。そこで、ちょっと変わった先輩の下で仕事をすることになる。Mさん。彼は本当に凄かった。マーケティングとはこういうことか!ということを一から学ばせていただいた。彼がしていたことは、とにかく自分の目で見て、聞いて、体験して、、、ということことを徹底していた。労を惜しまず徹底的にやっていた。かつらや増毛の事業展開をしているクライアントさんの担当をしているときは、自ら増毛の施術を受けて、そこで感じることをもとに、カスタマーインサイト(ターゲット顧客の理想と現実のギャップから真相心理を見出していく分析)をしていた。僕は丁稚奉公するようなスタンスで半年ぐらいご一緒させていただいた。

ある時、「そろそろ独り立ちしろよ。」と彼から言われ、寂しい気持ちと武者震いするような気持ちで電通マーケのストプラ(=ストラテジック・プランナー)としての道を歩んだ。僕の記憶に焼き付いているシーンがある。山一証券の倒産に象徴された「金融ビッグバーン」。4社の中堅証券会社が合併して「つばさ証券」(今は統合されて「東京三菱UFJ証券」)という会社ができた際のブランディングの仕事だった。僕は4人の社長の前で自分が作った企画の説明をしていた。電通・博報堂、ADK、読広、マッキャン、JWトンプソンの6社競合のプレゼンだった。プレゼンが終わり、質疑応答の時間。目の前にいた4人の社長さんのうちのひとりが、僕の方を向いていきなり話し出した。やせ型で背の高い社長さんだった。「あなたの企画書の28ページ。ここに書いてある4行」と言って、僕が書いたそのページの4行読を声を出して読みだした。そこには僕自身がお客様のご自宅に行って聞いたことをもとに、「これから生まれる新しい会社は、こういうお客様を大切にしていくといいですよね。」っていうことが書いてあった。いわゆる「リードターゲット(n=1)」の心理だ。「私は40年間この仕事をしてきているんだけど、、、自分が信条にしてきたことがここに書かれているんですよねー、あなた若いのに、よく言い当ててるなーと思って。全ての会社からの提案を聞いたわけじゃないけど、私は電通さんにお願いしたいと思います。」と。。。全身から鳥肌がたった。隣にいた他の社長さんたちは、その人のことをみて笑みを浮かべていた。「あなたのこと、家族のこと、資産のこと。つばさ証券」生まれたキャッチコピーは、それなりに良いものだったが、クリエイティブよりもマーケティングプロセスで信用を勝ち得たということが、僕のその後の信条を決めていくことになった。僕の企画は自分の企画ではない、背後にリードターゲットを筆頭とした何百人何千人の顧客予備軍がいる企画。だから必ず成功する。(そうなるまでは企画をつくらない。)

年間のバジェットが数十億円の6社競合に勝ったというのもあって、それからというもの、嬉しいことに競合プレゼンの機会を沢山いただいた。電通に在籍した最後の1年は、15回ぐらいの競合プレゼンテーションの機会をいただいたが、負けなかった。そして、1999年12月、2度目の結婚式をハワイでやった6カ月後に、僕は電通時代の後輩で一足先にサイバーエージェントに転職していたYさんの紹介で藤田社長と出会うのだった。そして、その半年後、僕は電通を飛び出して、会社の看板ではなく、マーケティングとブランディングを武器にして生き抜いていくことになる。

サイバーエージェントで「メルマ」「ライフマイル」などのメディア事業を創出した時、T&Gの急拡大期で仕事をした時、Tabioでカンヌライオンズや広告電通賞などの広告賞をいただくような仕事をした時、ストライプインターナショナルで「KOE」を立ち上げた時、、、そして、今、いくつかの企業のブランディングの仕事をしている時、それらにすべてにおいて大切にしているプロセスことを、今回は書いてみた。冒頭にほとんど書かれているが繰り返すと、、、「世界中で一番大切にしたい、たったひとり」にとって、「伸びしろ」をどう見せていくか?どのような「意味」に「変換(翻訳)」していくか。そして、それを「共感」と「大胆さ」に溢れた表現にしていく。データは必要だけど、データの先にある人の喜怒哀楽が見えるようになるぐらい、360°あらゆる角度からの観察を積み重ね、それがつながっていくような状況までロジカルに考えて、記憶の中にある「その時の、あのシーン」という引き出しの中にある具体と紐づけていく。そうすることによって、優位性のあるポジショニングや新しいし市場をつくることができる。そこから生まれたコンセプトワードは、リードターゲット(n=1)の心に刺さり、そこから芋づる式に伝播していき、大きな山を動かすことになる。そんな感じだ。

この第4話も長い文章になってしまいました。ここまで読んでくださってありがとうございます。

「空を飛ばせてくれたお父さんの足へ。靴下を贈ろう。」「2011年のクリスマス。世界中のサンタクロースが、日本に来ますように。」「中小・ベンチャー企業が咲き誇る国へ。」「稼ぐ力を、この国のすみずみまで。」「生きるをずっと心地よく、100年間、やさしくつよく、いられますように。」「行動者発の情報が人の心を揺さぶる時代へ。」このようなアプトプット(※2)が生まれた背景には、まだまだたくさんの思考があります。そういったことなども、第5話以降に気まぐれに書いていこうと思います。よろしくお願いします。

※2:コピーなどの最終アウトプットを僕自身がつくることもありますが、クリエイティブのプロフェッショナルの方々とタッグを組んだときの化学反応から生まれるアウトプットは、さらに素敵になれると思います。

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