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小説探訪記07:高村光太郎『智恵子抄』など

 小説は読めても詩が読めないのがコンプレックスだった。中身を味わうどころか、字面を追うことすら難しかった。

 倍速視聴に慣れ切った現代人には、韻文特有の音楽的なリズムは遅すぎる。視覚的に読もうとしても、頭の中で声が響いてしまう。そのせいでつっかえる。走ろうとしても足がついていかない。そういう感覚に似ているかもしれない。

1.高村光太郎『智恵子抄』を読む

 ただ、最近は詩も読めるようになってきた。高村光太郎『智恵子抄ちえこしょう』を読み返した。中学校のとき以来だ。久々に「レモン哀歌」を読み返したし、他の詩もしっかりと読めた。特に「ひがたき智恵子」の最後の二行が良かった。

わたしをよぶ声をしきりにきくが、
智恵子はもう人間界の切符を持たない。

高村光太郎『智恵子抄』「値ひがたき智恵子」青空文庫

 この「人間界の切符」という表現が、宮沢賢治『銀河鉄道の夜』と繋がっていくようで、切符という言葉が持っている共同幻想の重さを痛感した。生死の世界を船ではなく、鉄道で行き来するようになったのも、この時代からかもしれない。

2.「レモン哀歌」について

 また、最近まで「レモン哀歌」のことを結核の詩だと思っていた。高村智恵子の直接的な死因は、たしかに肺結核である。また、レモンは梶井基次郎の結核と切り離せない関係にある。そのイメージに引っ張られて、「レモン哀歌」も結核の詩だと思い込んでいた。

 しかしその背景には、智恵子にのしかかっていた過剰なまでの心労と睡眠導入剤の大量服薬とがあった。精神も病んでいた。絡まりあった何本もの辛苦が、ひとつの硬い結び目となり彼女を窒息させた。そういう経緯があったのを知らなかった。あるいは忘れていた。

「レモン哀歌」にもその点はしっかりと書かれている。数行引用しよう。

わたしの手からとつた一つのレモンを
あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ
トパアズいろの香気が立つ
その数滴の天のものなるレモンの汁は
ぱつとあなたの意識を正常にした

高村光太郎『智恵子抄』「レモン哀歌」青空文庫

「ぱつとあなたの意識を正常にした」とある。結核になればある程度は精神を病むかもしれない。意識も多少は混濁するかもしれない。が、あくまで身体の症状だ。

 しかしながら「レモン哀歌」では「意識を正常にした」と書かれている。つまり、結核だけを言及した詩ではない。一時的な精神の回復も言及されている。

3.『智恵子抄』と闘病恋愛モノ

 私の身近に、闘病するタイプの恋愛映画や小説を苦手とする人がいる。具体的な作品名は挙げない。が、そういう作品を避けてしまう気分は理解できる。『智恵子抄』に比肩しそうな作品が思い浮かばないからだ。

 闘病恋愛モノの基本は、病苦や夭折ようせつという悲劇と青春の清涼感が合わさったことで生じる、火花のような恋愛のきらめきにあるのだろう。

 高村智恵子は52歳で死去した。高村光太郎も当時55歳。年齢的には、若者の青春からは程遠いのかもしれない。しかし、やっていることは青春そのものだ。

 バンドマンが彼女のためにオリジナルソングを唄うことは青春のありふれた一場面であろう。一編の詩が歌だとすれば、詩集はアルバムである。高村光太郎は妻だけのために書いたアルバムを捧げたのだ。青春の中の青春である。

「レモン哀歌」に込められているのは、決してレモンの清涼感だけではない。若さに依拠しない青春もまた、詩に清涼感をもたらしている。

4.詩集になれる偉人

 そしてもう一つ思うことがある。伝記になる偉人は多いが、詩集になる偉人は案外少ないのではないか、ということだ。モーセやイエスキリスト、アレクサンダー、カエサルの時代ならともかく、近代で詩集が編まれるのはナポレオン一人くらいかもしれない。

 そう考えると『智恵子抄』は実に贅沢だ。ナポレオンほどの偉人でも詩集になれるかどうか。富も名誉も武勲も詩の前では、石ころと変わらないのかもしれない。

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