見出し画像

壁・顔・箱~自己と他者を仕切る境界

※※ヘッド画像は カワサキタカシ さまより
※安部公房『壁』のネタバレがあります。

安部公房は『壁』『他人の顔』『箱男』にて、一貫して同じ問題を扱っていたのではないか。実は〈壁〉も〈顔〉も〈箱〉も本来は同じものかもしれない。

『壁』を再読したときにそんな発想が浮かんできた。

画像1

『壁』の第一部「S・カルマ氏の犯罪」を読む

特に『壁』の第一部「S・カルマ氏の犯罪」を読んでいると、「自我と外界の境界」について考えさせられる。主人公は名前を奪われた男であり、名前という根本的なアイデンティティを喪失しているからだ。

名前を喪失した際に自分をどうやって定義するのか? あるいはどうやって他者と区別してもらうか? この問題を解決するのは難しい。

『ハーバード白熱教室』でも、マイケル・サンデルが学生に対して同様の質問を投げかけていた。しかし学生は答えるのに難儀していた。色々と意見を出してはみるものの、サンデル教授に易々と反論されてしまう。ハーバード大の学生でも答えに窮するのだから、やはり難しい問題なのだ。

「S・カルマ氏の犯罪」の結末

再び『壁』の話に戻ろう。名前を失った主人公は最終的にどうなったのか? 

名前を返してはもらえず、自分自身が〈壁〉になってしまった。想像がつかないかもしれないが、本当に〈壁〉になってしまったのだ。「証拠を出せ!」と言われそうなので結末を引用してみたい。

 やがて、その手足も首もなめし板にはりつけられた兎の皮のようにひきのばされて、ついには彼の全身が一枚の壁そのものに変形してしまっているのでした。
――安部公房『壁』「S・カルマ氏の犯罪」新潮文庫 p.163

あまりにも荒唐無稽な結末に見えるが、どう解釈したものか。自分なりに考えてみた。

結末をどう解釈するか?

名前そのものが自分と外界を区切る〈壁〉だったのだろう。しかし自分の名前を失ったからといって、身体が急に溶けたりはしない。自分の名前を忘れてしまったら、たしかに困惑するに違いない。だが名前を失おうと、食事や排泄、睡眠が必要であることには変わりない。生活はいつまでもどこまでも続いていく。

そして、生活を続けていくには、自分と外界を区別せねばならない。別の言い方をすれば、自分と他者とを識別できるようにしなければならない。そのためには代わりの〈壁〉を用意する必要がある。名前を失った主人公は、自分自身を〈壁〉としなければならなかった。だから主人公は最終的に〈壁〉になったのだ。

『壁』から『他人の顔』、そして『箱男』へ

以上が私なりの解釈である。そして『他人の顔』や『箱男』にも【自我と外界との境界に関する問い】は引き継がれているのではないか。

今度は名前の代わりに、自分の顔が無くなってしまったらどうなるか? あるいはダンボール箱の中に自分をまるごと隠してしまったらどうなるか? 

そんな思考実験を文字に書き起こした結果、『他人の顔』や『箱男』が生まれたのではないか。そんな風に推理してみた。

安部公房の小説は概して複雑であり、整理できていない部分も多い。しかしながらこの方針は正しいだろうと感じている。この直感を基にして、次の3つの視点から安部公房の作品を読んでいきたい。

① 壁・顔・箱は〈自己と他者の境界〉としてどう機能するのか?
② 壁・顔・箱は他者にどう見られるのか?
③ 壁・顔・箱は、新境地を開いてくれるのか?

とはいえ、記事を書くには時間が掛かる。しばらくお待ちいただけると幸いだ。

過去記事の紹介

○ 安部公房『カンガルー・ノート』を読む
○ 小川洋子『ブラフマンの埋葬』を読む

以前にも、安部公房の小説である『カンガルー・ノート』を取り上げたことがある。この作品も面白い。笑える。すね毛代わりのカイワレ大根、烏賊爆弾、物欲ショップなどどいったドラえもんのひみつ道具にはならないであろう珍妙な代物が沢山登場する。

小川洋子『ブラフマンの埋葬』は、『壁』や『箱男』と比較しながら読んでみると面白い。『ブラフマンの埋葬』では「ブラフマン」という名前の猫が登場する。しかし、それ以外の登場人物には名前が与えられていない。彫刻師、雑貨屋の娘……といったように職業名で呼ばれる。それでもなお、文章は瑞々しい。無味乾燥にならないのが面白いのだ。

この記事が参加している募集

推薦図書

読書感想文

平素よりサポートを頂き、ありがとうございます。