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小説探訪記02:パラレル小説編

今回もいろんな作家について話していきたい。直感的なものが多い。共感できない話もあるかもしれない。「そんなものか」と流してくだされば幸いだ。作家名は敬称略。あしからず。

安部公房と小川洋子

安部公房と小川洋子の小説は、全く異なっているように見えて、本質的には似ているのではないか。どちらも没個性的な人間を人間的に描いている気がする。固有名詞のない登場人物でも活き活きと描いてしまう能力がある。この点は安部公房『箱男』と小川洋子『ブラフマンの埋葬』を読むとわかりやすい。

しかし決定的に異なる点もある。安部公房の視線は個人に集中している一方で、小川洋子の視線は物に向いている。この点は安部公房『壁』と小川洋子『薬指の標本』を読んでみると解しやすいだろうと思う。詳細は別の記事にしたい。

井上ひさしと多和田葉子

井上ひさしと多和田葉子の作家性も実は似ている気がする。両者とも日本語(標準語)ではない別の言語(方言)を求め続け、日本語の拡張や回復に努めてきたのではないかと思う。井上ひさしはその意識が方言に向かった一方で、多和田葉子の場合はその意識が外国語に向かったのではないか。

また、井上ひさし『吉里吉里人』と多和田葉子『献灯使』を見比べるのも面白い。前者は東北地方に出現した独立国家の顛末を、後者は鎖国状態となった高齢化社会・日本を描いた。どちらも”大風呂敷”のような作品である。SF小説的な緻密さよりも、想像力のダイナミクスが見所となっている。

言語に関心を持ち続けた作家が、そのような作品を書いているのは興味深い。これも詳細は別の記事としてまとめたい。

戦争小説を読む

戦争小説の定番は決まっている。大岡昇平『野火』や原民喜『夏の花』、野坂昭如『火垂るの墓』、梅崎春生『桜島』、壷井栄『二十四の瞳』。最近ではアレクシェーヴィッチ『戦争は女の顔をしていない』、逢坂冬馬『同志少女よ、敵を撃て』が入るだろうか。

しかし、既存の小説を戦争小説として見直すことは難しい。

たとえば、中島敦『李陵』。語られるのは漢代の武人の命運である。直接的に太平洋戦争が言及されることはない。しかしその行間には、戦争に直面した個人の運命に対する諦念のようなものが見え隠れしている。

太宰治『トカトントン』や横光利一『微笑』、ヴァージニア・ウルフ『幕間』。これらもなかなか話題には上らない。しかし、これらの小説もまた戦争小説として捉えていく考え方もありそうだ。

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