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#2 私が適応障害になった理由

こんばんは。
新卒1年目で適応障害と診断され休職中のtentenです。
今日は前回の記事( #1 私が適応障害になった理由 )の続きです。
もし前回の記事を読んでなければ、ご一読ください。私の物事の捉え方・考え方を深堀しています。
今回はしっかりと大学4年の9月の自分と向き合いますよ~!

大学4年生の頃の私

この頃、私は就活支援団体の幹部をしていました。
運営メンバーは50人ほどです。
自分自身、就職活動では色々と苦労したので後輩のためになるなら…と何気ない気持ちで始めました。

この就活支援団体の母体はNPO法人で、全国各地に支部がありました。
そしてその各支部に大学4年生の運営メンバーが集められ、大学3年生に向けたキャリア面談を行ったりしていました。
また、各支部の状況をマネジメントするNPO法人の社員の人もいました。

正直言うと、私が所属していた支部もこの就職支援団体も私に合わなかったんです。
支部内の50人を1チーム5・6人に分け、毎週会議。
話すことは、企業の説明会・インターン募集の案件の訴求の確認・訴求数や新しい大学3年生を何人会員にできたかなど。
目標数値に達成できていないとなぜなのか?
どうしたら良いのか?をひたすらに考える会議でした。
そしてそれとは別に広報・マネジメント・サービスの分析などを行う部署のようなものに分かれてもいました。
これも毎週会議がありました。

もちろんお金は一銭ももらっていません。

ここまではまだ私は許容範囲でした。
いくら数値を追うのが苦手でも、夜遅い会議があっても
まだ耐えれていたと思います。

何かの糸が切れた

ある日、社員(各支部にマネジメントのために派遣されている人)に言われました。

「tentenは優しすぎる!もっと厳しく言わないと、ただの馴れ合いになる。」

何気ない会議の中での一言でした。
優しく寄り添い、その子の気持ちを受け入れることが自分の良さだと…
これだけは何があろうと自分の良い部分だと思っていました。
そこを否定された気持ちになりました。

当時「何も持ってない」私からすると、この強みは唯一誇れるものでした。
しかし、それは時と場合によっては無価値なものになると言われたような気持になりました。

自分の無力感、未熟さを突き付けられた後の業務量の圧迫や代表とのミスコミュニケーションが続き疲弊しました。

他にも書ききれないほど様々な出来事があったのですが、大きくまとめるとこんな感じかなと思います。

その後

その後、私は9月に全体会議で活動から離れることを仲間に口頭で伝え、戻る勇気もなくフェードアウトしていきました。

それと同時に他の学生団体の活動やインターンもお休みすることを決意しました。

今でもこの出来事の影響で私がなかなか自信を持つことができないことに繋がっている感覚があります。
まだ乗り越えられてないんだなあ。。。

いかがでしたでしょうか?
私が初めて適応障害になった理由である「私の考え方」や「その時の出来事」を振り返ってみました。
今度はメンタルクリニックについても書いていこうかなと思っています。
正直、心の病気を経験してない方からすると心療内科やメンタルクリニックって遠い存在だと思うんですよね。
なので少しでもどんな感じなのかお伝えできればと思います。

ここまで読んでいただきありがとうございました。
今回すごく書くのが難しく、つたない文章かもしれませんが、少しでも「お前頑張ってるよ!」って思ってくださった方は「好き」「フォロー」よろしくお願いします。

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