短足饅頭

1980年生まれの40歳。 まんじゅうと呼ばれるにふさわしいフォルムを持つ一子の母。

短足饅頭

1980年生まれの40歳。 まんじゅうと呼ばれるにふさわしいフォルムを持つ一子の母。

最近の記事

漫画が癒す死の形

父を喪った。 抗がん剤に体のほうが耐えられなくなっているから、と治療をやめ、対症療法に移ってからたった2ヶ月で逝ってしまった。 新型ウイルスの感染対策で、入院していても父には会えない。 父本人たっての希望で、実家での終末ケアとなった。 ただ、この「終末期患者」はおよそ死を連想させない日々を過ごした。 食事は満足にとれなくなっていたが(胃癌ルーツの多重転移なので致し方ない)、カロリーメイトゼリーのリンゴ味を気に入って1日1本飲んでいた。 終末ケア専門の訪問医師&看護師からは

    • ひょっとして、を抱えて

      8月6日は何の日か。 人の上に太陽が落ちた日だ。 3歳の男の子は、8月9日、「おばさん」を探してまだくすぶる爆心付近を歩いていた。 変わり果てたおばさんを焼いてもらって、鳥取へ連れて帰った。 そこから、 そっと握手をしただけで、皮膚は内出血を起こした。 野球をすれば、グローブが当たるところがいつも内出血で真っ黒になった。 「ひょっとして」なんて思うわけがない。 そうやってやりすごして、生まれた息子は白血球の少ない子供だった。 体はちっとも大きくならず、毎年毎年検査をして

      • シュールストレミングな呪い

        1996年春、志望する高校に合格した。 旧制中学から続く公立高校。もちろん第一志望だったからうれしかった。 高校生になると、義務教育から離れる。 これまで持てなかったアイテムが持てるようになる。 男子はどうだか、今はどうだか知らないが、当時の女子といえば、限られたアイテムの中で、個性を出し、小さなマウントをとり、自己満足を得るものだった。 当時のスタンダードは、時計はBABY-G、ポーチやペンケースはレスポートサック、トートバッグはエルベシャプリエかagnis.b、体操服

        • 百折不撓

          2020年某日、某スイミングスクールにてその日、息子は、見ず知らずの年下男子に喧嘩を売られていた。 仲良しの中学生と、世間話を楽しんでいたところ、習い事の話になり、剣道をしているよ、という話をしたところで、後ろでそれを聞いた年下野郎が会話に割り込んできたらしい。 そして、開口一番 「おまえ、剣道やってんなら、鬼滅の技やってみろや」 と言ってきたそうな。 初対面の年下のくせに、酔っ払いのおっさんのイチャモンみたいな口調である。激しく面倒くさかったが、まぁいいや、と、その場で(

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          錆びたみなとで大声で歌おう

          色褪せていく勇気が出ない時もあり そして僕は港にいる 消えそうな綿雲の意味を考える 遠くに旅立った君の 証拠も徐々にぼやけ始めて 目を閉じてゼロから百までやり直す 写真は、Googleが撮影した、ふるさとの港だ。 私が生まれ育った町のこの港は、ごらんのとおりで、非常時のみに閉められていた鉄扉は、今はずっと閉まったままだ。 祖父も、伯父も、父も、ここに漁船を泊めていた。 祖父は本業のイカとタチウオ釣り。 伯父は祖父のおさがりで、父は伯父のおさがり。 あの当時でも、父子3隻持

          錆びたみなとで大声で歌おう

          こっくりさん

          「ねえねえ、お母さんはこっくりさんやったことある?」 それは何気ない日常の、母子の会話の一幕だったと思う。小4になり、オカルトブームの中、小学生の間では「こっくりさん」が流行っていた。 「こっくりさん、こっくりさん、お教えください」と唱えながら、50音やはいいいえが書かれた紙上で友人数名でコインに指をあわせると、意図しない方向へコインが動き出す。 おそらく誰かがあえて意図をもって(持たぬふりをして)やっている、オカルト遊びだろう、と、暗黙の了解であったように思う。 遊びで

          こっくりさん

          兄妹ごっこ

          私には、12歳離れた兄(仮)がいる。 とはいえ、私は「ひとりっこ」でもある。 父(マーちゃん)と母(トッコ)は初婚どうし、戸籍上も私は第一子で。 だから、兄には「(仮)」がつく。 はじまりは50年以上前になる。 当時、二人は子をなすことを諦めて生活していた。 母は重度の不育症で、5年の間に少なくとも4人の子が育たなかった。 ホルモン治療をしたものの、体重が20kg増えただけで、いっこうによくなることはなかった。 そんな二人のところに、ある日天使が現れる。 それが、近

          兄妹ごっこ

          貧乏腹の正体

          私はちょっとした「苦学生」だった。 父が会社の覇権争い(マジで)に負け、想定外の煮え湯を飲まされることになったのと、私の進学がほぼ同時だった。 それでも両親は、快く私を(高齢出産の一人娘を!)県外の大学に出してくれたので、私はバイト三昧で、自炊できる範囲で、貧乏飯をかきこむ日々を送っていたのだった。 そしていつからだろうか。ごちそうを食べるとおなかを壊すようになっていた。 おいしいものを食べると、30分~40分ほどで下腹部からエマージェンシーコールがかかる。 これが外出先

          貧乏腹の正体

          新婚旅行とグアムとトイレ

          200X年、運よく数寄者と出会い、私は結婚することになった。 10代の半ばごろから、自分の身の程とキャラを鑑みて、結婚することはないんだろうなと思っていたから、数寄者のもの好きっぷりには驚きの連続だった。 結婚式も披露宴も新婚旅行も分不相応だと思っていたのだが、私より数倍立派な乙女を内包する数寄者はサクサク準備を進め(なんならドレスも積極的に決定された)、春、めでたく夫になった。 さて新婚旅行である。私は特に行きたい場所もなかった。それまでパスポートすら持っていなかった。夫

          新婚旅行とグアムとトイレ

          期待はずれ

          私は、お酒が飲めない。 正確には「飲みたくない」だ。お酒の味が嫌いなのだ。 ビールの味は苦く、日本酒や焼酎は舌がしびれて味も何もない。 ウォッカやジンの入ったカクテルも、一撃で舌がしびれてしまう。 梅酒ソーダやカシスオレンジなどという、軟弱な酒しか舌が受け付けないのだ。我、メンタルに乙女という言葉が存在しないため、そのような軟弱な飲み物なぞ飲んでたまるか!!!というのと、どうせおいしくないものに高い金や二日酔いなどのリスクを払いたくないので、率先してウーロン茶を頼むハンドル

          期待はずれ

          真夏の夜の小冒険

          夏が来た。 蒸し暑い夜が来ると、毎年、私は18歳の夜に帰る。 18歳、高校3年の夏の夜、私は、校舎の中にいた。 当時、私は高校3年生。放送部員として、最後のNHK杯(※高校放送コンテストの最高峰)に臨んでいた。 私が挑んだのはテレビ番組部門だった。アナウンス・朗読に才がなく、部内でも求心力のない自分が一匹狼でも挑める唯一の部門だった。 とはいえ、強豪校と違い細々とした同好会的扱いの放送部には、2畳の放送室しか与えられていなかった。据え置きの学校用放送設備と、なけなしの予算

          真夏の夜の小冒険

          幽霊に叱られる

          【山の手線の電車に跳飛ばされて怪我をした】 かの有名な、志賀直哉「城崎にて」の冒頭文だ。 初っ端からパンチが効いていて、読むたびに毎度笑ってしまうのだが、似たようなことが我が身にも起きたのは中学3年生のことだった。 そこそこなスピードの、赤いスポーツカーに跳ね飛ばされたのである。 当時私は、自転車で20分ほどの私塾に通っていた。授業が終わるのは午後9時半で、のんきにひとり、自転車で帰路についていた。(※時代がまだのんきだったので、ね) 半分ほど進んだところで、帽子を忘れ

          幽霊に叱られる

          夢で逢いましょう

          まる子と友蔵にあこがれていた。 孫を溺愛し、一緒に散歩し、おしゃべりをし、たまに喫茶店に入る。ほしいおもちゃや駄菓子をこっそり買ってもらうまる子を見るたびに、羨ましかった。 父方の祖父は、歩いて3歩のところに住んでいた。明治生まれの漁師トヨキチは、毎日毎日船に乗って漁に出る。トヨキチ的に市場に出せないレベルの魚は、近所に住む息子や娘の家にばらまかれていく。(おかげさまで私は、一生分のタチウオを食べたと自負している。) 私は「15年にわたる不育症の果てに、母親の子宮にへば

          夢で逢いましょう

          KRちゃんのこと

          息子は今小5だ。剣道を嗜んでいる。 小1から1年かけて、渋る私たちを説き伏せて、小2からはじめて今小5。仲間といるのが楽しくて、ちょっぴり入賞なんかもさせてもらえて、何かと充実している。楽しそうで何よりだなぁ。 でもさ、母ちゃんは思い出しちゃったよ。KRちゃんのこと。 KRちゃんは、私の小学校の同級生だ。記憶している限り、学年でたったひとりの剣道男子だった。いつもくりくり坊主で、女の子みたいな顔立ち、薔薇色の唇、誰にでも優しくて、そして1980年後半~1990年代初頭の

          KRちゃんのこと