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ひょっとして、を抱えて

8月6日は何の日か。
人の上に太陽が落ちた日だ。

3歳の男の子は、8月9日、「おばさん」を探してまだくすぶる爆心付近を歩いていた。
変わり果てたおばさんを焼いてもらって、鳥取へ連れて帰った。

そこから、
そっと握手をしただけで、皮膚は内出血を起こした。
野球をすれば、グローブが当たるところがいつも内出血で真っ黒になった。
「ひょっとして」なんて思うわけがない。

そうやってやりすごして、生まれた息子は白血球の少ない子供だった。
体はちっとも大きくならず、毎年毎年検査をしていた。
虚弱体質で、1年に何度も寝込んだ。
それでも「ひょっとして」とは思わなかった。

やがて息子に子が生まれると聞いた。
ようやくそこで、「ひょっとして」と思う。
あのとき、自分は、「入市被爆」していたのではないかと。

※入市被爆とは
原子爆弾が投下されてから2週間以内に、救援活動、医療活動、親族探し等のために、広島市内または長崎市内(爆心地から約2kmの区域内)に立ち入った方。※広島にあっては昭和20年8月20日まで、長崎にあっては昭和20年8月23日まで。(厚生労働省HPより抜粋)

被爆者健康手帳は持っていない。何の証拠もない。
年々弱くなっていくあざだらけの体も、
妙に虚弱で病院通いの絶えない息子も、
本当に「たまたまそういう体質」なのか、それすらもわからない。

孫は五体満足で生まれてこれるのか。
何の影響もないからだで生きていけるのか。
60年もたっているのに、不安は、呪いは、消えない。

孫は、「とりあえず」無事に生まれてきた。
明日は友人と学校へ平和授業へ行き、帰りには約束していた映画を見に行く。

でも明日は?あさっては?

76年たっても、「不安」という呪いが消えない。
76年たっても、「はい、もうおしまい!」と言える人がいない。
それが、原子爆弾という兵器の本当の恐ろしさ。

手帳を持っている人だけが被爆者ではない。
あの日、家族を、友人を、大切な人を探したたくさんの人たちがいた。
救護に尽力した人もたくさんいた。
彼らは皆、はからずも「隠れ被爆者」となっていった。

義父も、夫も、私の息子も
心のどこかに、「ひょっとして」を抱えて生きていく。

街を壊し
文化を根絶やし
DNAを傷つけ
永遠に不安を与え続ける兵器が核兵器です。

8月6日 8月9日
「もう忘れていい」日は来ない。
忘れたら、同じものがきっと私たちの頭上にやってくるから。
忘れないことが、私たちの予防接種だ。

※たゆまぬ研究とリサーチにより、被爆2世・3世に遺伝的な影響残ることはほぼないと結論づけられています。
科学的な実態についてではなく、私が述べたい不安というのは、ここでいう「ひょっとして」という感情こそであり、おそれであり、呪いなのです。

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