夢で逢いましょう

まる子と友蔵にあこがれていた。

孫を溺愛し、一緒に散歩し、おしゃべりをし、たまに喫茶店に入る。ほしいおもちゃや駄菓子をこっそり買ってもらうまる子を見るたびに、羨ましかった。

父方の祖父は、歩いて3歩のところに住んでいた。明治生まれの漁師トヨキチは、毎日毎日船に乗って漁に出る。トヨキチ的に市場に出せないレベルの魚は、近所に住む息子や娘の家にばらまかれていく。(おかげさまで私は、一生分のタチウオを食べたと自負している。)

私は「15年にわたる不育症の果てに、母親の子宮にへばりついて生まれてきた」ド根性ベイビーだった。つまりダントツの末孫だった。既に成人した孫がいたトヨキチにとって、女の子の末孫など何も珍しくはなかった。

お年玉も誕生日祝いも常に現金。しかも袋は明らかに伯父嫁が書いたものと子どもでもわかった。いつでも定位置で熱燗となべ焼きうどんばかり食べていて、私はもらうモンもらえば、そそくさと「徒歩3歩」の自宅に戻る有様だった。「祖父は私には関心がないんだな」と、すっかりひねくれていた。

トヨキチはどうやら、町内でも変わり者の爺さん扱いだったようだ。漁師町だったものの、バブル時代には誰も漁を生業にはしなくなっていた。九州一汚いと言われた川から豊後水道へ抜け、毎日毎日タチウオを釣って市場におろしていたのは、町内でもトヨキチくらいなもんだった。町内のご老人たちの社交サロンのゲートボールにも、敬老の集いにも、一切参加しなかった。

トヨキチには友達もいない。いつも機嫌が悪そう。声をかけても無視される。私は祖父をおそれ、避けていた。

状況が一変したのは、私が16、トヨキチが87の正月明けのことだった。

脳溢血での救急搬送。そのまま、脳外科に入院となる。左半身に麻痺が残っているが、命に別状はない、と聞いて、「ふーん」と聞き流していた。

「爺さんが病院で大暴れしている」と父がぼやいたのは入院から2週間が経過したころだった。なんでも、点滴は引きちぎる、帰るといってベッドから墜落、とやりたい放題らしい。誰の聞く耳も持たないらしい。

「おもしろいな」と私は思った。16年間、トヨキチが感情をあらわにしているところなんか見たことがないのだ。暴れる爺さんを見てみたい。明治男のお手並み拝見したい。

「私が説得してみようか?」

面白半分で提案すると、父も母も、なぜか大賛成した。それがいい、おまえが言ってくれ、と。

さっそく翌日、学校帰りに祖父を見舞った。案の定というか、予想通り、祖父は大の字でベッドに縛り付けられてウーウー言っていた。すごいぞ、ガリバー旅行記みたいだ。

「爺ちゃん」と声をかけたら、うめき声が止まった。「おお」と一声出して、

そして、トヨキチは笑った。

「あばれたんち?ダメやん、病院の行くこと聞かんと、いつまでたってん、帰れんで~」

そういって、病人用の水のみ(吸い口?)に、当時はやっていたプリクラをべたべた貼った。

「これでしっかり薬飲んで、早く帰っておいで!」というと、トヨキチは「おお」とまた笑った。予想外の反応に、私は動揺した。一人で見舞いに行ったセーラー服の小娘が、87の爺さんと共通の話題などないのだ。そそくさと帰るしかなかった。

結局暴れることはなくなったが、「帰る」といってきかないのと、リハビリを拒否するので、祖父は強制送還となった。仏間で寝たきりの日々。もう漁には出れない。網も編めない。

私も高2で部活が忙しかった。目の前に住んでいるのに見舞いには週1~2回しか行けなかった。寝たきりだし、にこにこしてるけど会話はできないし、間を持たすために例のプリクラまみれの吸い口で飲み物を飲ます程度。それでも両親は、ことあるごとにトヨキチのところに行ってくれと頼んできた。めんどくさいなー、でもまあこれくらいしてもいいか。他の孫は仕事してるもんな、暇な学生は私だけだもんな。と、のんきに構えていた。

4月17日、あっけなくトヨキチは死んだ。部活の友達とモスバーガーに寄って、モスチキン3本一気食いしてゴキゲンで帰ってきたら、近所の爺さんに呼び止められて「おじいちゃん、亡くなったよ!!!」と告げられた。

わけがわからなかった。いやいや、昨日も見舞いに行ったけど、別にふつうだったし、いや、ふつうじゃないか、寝たきりだもんな、でもそんな、死ぬとか聞いてないよ?

心の中でダチョウ倶楽部が大騒ぎしながら、私は「徒歩3歩」の祖父の家に駆けこんだ。玄関からすぐ仏間が見えて、まっすぐ、白い布が見えた。

トヨキチは、退院以後、一切の飲食を絶っていた。一族総出で説得したがだめだった。末孫がのんきにすすめる、プリクラだらけの吸い口からの一口の水しか、3か月ほど受け付けていなかった。生涯現役漁師にほこりを持ち、誰の世話にもなりたくなかった祖父が選んだのは、ゆるやかな自死だった。それでも、末孫の言うことだけは断れなかった。だから、両親は私を熱心に派遣していた・・・・・・・・・・・・・・

トヨキチにとってエリは特別だった。次男夫婦が泣きながら子を何人も弔ってきたのを黙って見守ることしかできなかった。やっとやっと生まれた子どもだった。年とった自分が子守をしてもしものことがあってはいけない。だから、よけいな接点を持とうとしなかった。愛ゆえに、遠ざけた。不器用な明治男ここにあり。

私は、エリは、葬式で、一人わんわん泣いた。アジアには葬式で泣く専門の職業があると聞くが、まさに「泣き女」と化し、泣きに泣いて、参列者の涙をふり絞らせるいい仕事をした。

1週間後、夢にトヨキチが現れた。デパートの文具コーナーで、MONOの消しゴムをひとつ、買ってくれて、頭をぽんと、なでてくれた。

生前ついに1度もかなわなかった、憧れの祖父とのお買い物。お金じゃないはじめてのプレゼントは、MONOの消しゴム。

初七日、4月23日、私の17歳の誕生日にみた、夢だった。

私の友蔵は、夢に来てくれた。いまだに親族誰の夢にも出ないというトヨキチ。祖父。私の、おじいちゃん。またデートしようね。

夢で逢いましょう。

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