月と素盆

夜、ベランダに出てタバコを吸っていると、線路を挟んで左向かいに見えるマンションの上に大きな満月が見えた。
月を非常に近くに感じて不思議に思う。

地球と月とのあいだには約38万キロもの距離があるという。
その距離は、年々わずかに遠ざかっていると言われるが、月が空のどこに見えようと、月と地球の距離は変わらないから、月がマンションの上で巨大に見えるのは目の錯覚で、それは本当は天高くあるときに見えるのと同じ大きさだという。
実際、片目を閉じて、開けている目に軽く握った拳を当てて、指と指の隙間から月だけを見てみると、なるほど月はあっという間に小さくなった。

これは「月の錯視」と呼ばれる古来から注目される有名な天体錯視の問題で、現代では、心理学的錯視であると考えられている。
月の錯視は、ポンゾ錯覚で説明されることがあるが、他にも様々な考え方があり、明確な結論は出ていない。
ポンゾ錯覚の考えでいけば、私たちは、物体の大きさを背景との距離感に依存して算出するために、地平線近く(マンションの上)に見える月が、(マンションのような)比較対象のない(他の物体が同時に視界に入らない)空の高いところで見た月より大きく見える、ということになる。
この説明で明らかにされるのは、私たちが、はじめから全く無根拠に、空をドーム状の広がり(空間)だと認識していることが、私たちの月の見え方に非常に強力な影響を及ぼしているということだ。

ここで、私は、どうしても一つの疑問を払拭できない。
つまり、私たちは、いつから空が、自分たちの頭上にドーム状に広がっていると錯覚したのか。
あるいは、これを錯覚というのは、レトリックかもしれない。
しかし、月の錯視の向こう側から現れたそれは、宇宙大に深淵な問題に思われる。

月の錯視に関する説明から私が直観したのは、これ(錯視)は、人間が三次元の肉体を持ち、三次元の空間を生きる(解釈する)上で、必要不可欠な齟齬だ、というものだ。
こう考えれば、錯覚について、分かりやすく納得できる。
では、私たちは、その存在の前提から、初期情報として、空がドーム状であることを知っていたのかもしれない。
地球が球体であることや、宇宙があることを認識する以前に、既に、知覚の可能上、そう認識せずにはいられない原初的必然によって地上から見える空の全貌を想定し、月の錯視を見ていたのではないだろうか。

地上から天体(主に太陽と月)を観察していると、その運行は、何も知らない裸の(固定観念のない)人間に、それ(天体の動き)に沿った空間(天空のドーム)を思い描かせる。
しかし、後に、これ自体も錯覚であることが分かる。
なぜなら、月や太陽などの天体は、実際には、地球からずっと離れた場所にあり、天空のドーム(空)にぴったり沿うように私たちの頭上を運行しているわけではないからだ。
しかし、現代において疑われることのないこれらの科学的事実に関して、私は根本的な懐疑を持たずにいられない。
果たして、この錯覚の先の真実の世界に、宇宙は本当に存在するのだろうか。

さて、「月の錯視」とは一体何なのか。
この問題には、人間の意識の根本に関わる不可解な迷宮が広がっているように感じられる。
これ以上端的に語るのが難しいから持ち越す。
また。