オラン・アスリとラムネー氏
昨日、大学でお世話になった先生と話す機会があった。
いろいろと雑談した。
その中で一つ、特に興味深い話があった。
これは先生が、昨年の夏にマレーシアの先住民の村を訪れた時の話だ。
彼ら先住民は、オラン・アスリ(マレー語で「本来の、人」)と呼ばれている。
約6万年前にアフリカから渡ってきた人類が、マレー半島に根付き、今日まで少数民族として、先祖代々の土地を生きている。
社会制度としては身分制による階級社会が採用されているそうだ。
面白いのは、先生が、先住民の子どもたちに「けん玉」を渡した時のことである。
最初にけん玉を与えられた子どもは、やってみて失敗すると、すぐ隣の子どもに譲ったそうだ。
すると、次の子どもも一度やってみて、同じように隣に譲る。
そうして、けん玉は子どもたちを一周したらしい。
先生はこれに驚いて、ビデオまで撮ったそうだが、それもそのはずである。
これはいかにも面白い。
普通、現代人の感覚からすれば、子どもは、けん玉をそう簡単に他に譲らない。
私たちが知る子どもは、初めてけん玉を遊んだら、出来るまで絶対に離さないし、けん玉の単純な遊びの性質は、これを助長する。
ヨーロッパ的な自我や、アメリカ的個人主義の強い影響下に生きる先進文明人からすれば、この認識は当然のことである。
しかし、オラン・アスリの子どもたちは何のこだわりもなく他の子どもに"遊び"を譲る。
これはいったいどういうことか。
けん玉に興味を覚えなかった?
譲り合いの精神がある?
異邦人の来客に際し、緊張から出た不自然な行為?
いや、違うだろう。
彼らには、そもそも"個人"が重要ではないのだ。
これは先生の話によるところだが、彼らは森と共に息をするように暮らし、自然の恵みとお互いの手助けがあれば、特に近代文明を必要としなかった人々だ。
だから、「自分」が"遊ぶ"ことは、それほど強い要求を持つ事柄ではない。
先生はさらに、西洋人における「神と個人の垂直関係」について触れた。
これは、西洋諸国の大陸における激しい興亡の歴史に由来する彼らの精神性に関する一般的な見解だ。
彼らの強い自己主張、"自我"というのは、その歴史的軋轢の必要から生まれたものに違いないが、要するにそれは、「自分」の上に「神」がいて、横にいる「他者」よりも、この「神」と「自己」との"縦の対話"にこそ重きを置くからこそ"自我"であり"個人"だ、という論だ。
そこから、東洋的な世界観に眼を移すと、例えばオラン・アスリの人々には、「神」があっても、それはすなわち自然との暮らしの中にあるので、「神々」である自然と合一して生きることこそが重要となる。
すると、「個人」という小さな意識は、自然と生まれづらくなる。
西洋人の感覚と対比させるならば、「自然(神々)と人間の水平関係」と、言えるかもしれない。
大方こういうことを先生が話された。
そこで、私は、先生の話を聴いた所感を述べた。
私が思ったのは、彼ら(オラン・アスリ)は、非常に大きなシーンで自分たちを捉えている、ということだ。
彼らは自分たちを、個人や家族という単位を越えて、先祖から続く、「自然と人との共生関係」それ自体だと、考えているのではないかと思ったのだ。
そういう大きな「自我(≒アイデンティティー)」の捉え方の中では、個人の経験や生死は、より大きな意識の一部でしかない。
大局的な視点(例えば「生命の流転」)から"自己"を見渡せば、「自分」という意識の主張は全然問題でなくなる。
だから、子どもたちはけん玉を隣に譲るのだ。
誰かの失敗は、大きな全体(個)の一ヶ所の失敗(悲しみ)であり、誰かの成功は、大きな全体の一つの成功(喜び)であるから、「誰」が「けん玉」を"プレイ(操作)"するか、ということは大した問題にはならない。
個の経験は、森と共に全体へと還元され、共同体の「生きている実感」へと直接的に作用する。
そう考えると、昔の日本で、フグを食すために死んでいった人たちも、そのような心持ちであったのではないだろうか、と考えた。
つまり、「あぁ、ワシはハズレを引いた。死ぬ。じゃあ、横のお前さん頼んだぞ。」、「はいはい、わしもハズレを引いた。次の方頼みますぞ。」、「へえへえ、"これもワタクシ"、死ぬのも仕方ありますまい。では、いただき。あ、こりゃいかん。」
という具合に、自分たち人類の「存在」という大きなシーンで考えると、自分一人の死は大したことではなくて、その後も続く人々の暮らしで、一つでも美味しく頂けるものが増える方がよっぽど重要だと考えていたのではないだろうか。
そうでなければ、このような命知らずの勇気は生まれないのではないだろうか。
個人の生死に囚われいては、こうはいかないはずである。
と、私が一通り話終えると、先生は「それは面白い。」と言った。
先生は坂口安吾の『ラムネ氏のこと』というエッセイを思い出していたそうだ。
この随筆は、ある日坂口が、小林秀雄や、島木健作と鮎釣りに行った帰り、三好達治の家に行って鮎を食した時の話である。
食事の最中、彼らは、生涯にラムネ(ビー玉のシステム)を発明しただけで死んだ男の話になり、すると三好達治がラムネはラムネー氏が発明したから「ラムネ」なのだ、と断固言い張る。
みんな大笑いしたが、三好が折れないので辞書を引くと、やはりラムネー氏は見当たらない。
それでも三好は、自分の辞書がたまたま悪いと、こだわり続けた。
後日、坂口が上等な字引で「ラムネー氏」を探すが、見つかったのは、フェリシテ・ド・ラムネー氏という高尚な哲学者の名前だけで、彼はラムネの発明家ではなかった。
そこで坂口は、世に既にあるいろいろのことは、しかし誰かの工夫によってあるのであって、自然にはないことを思い知る。
フグにしても、歴史に名を残さなかった幾人もの無名の勇気によって、今日の私が安全に味わうことができるわけで、そこには非常に壮大なドラマがあったはずだ、と坂口は考える。
つまり、勇気ある者が臨終に、自分が体験した危険を後世に伝えてきたからこそ、今日のいろいろがある、と。
坂口はそこから自分の体験を振り返る。
ある旅館で、毎日出てくるキノコをどうしても恐ろしく食べてみる気にならなかった。
その付近のキノコ取り名人のおじいさんが取ってきたものだから心配はいらない、と宿の人は言うが、坂口らはついに食べなかった。
その後、彼らがまだ泊まっているうちに、キノコ取りのおじいさんがキノコに当たって死んでしまうという事件が起きる。
坂口が名人の往生際を聞くと、「こういうことも覚悟していた。」というふうに、素直に逝ったという。
そして次の日には村の人も普通にキノコを食べていてた。
坂口は、この村にラムネ氏のような人物はいなかったと知る。
名人は、ただ死んだだけで、何も言い残さなかったからだ。
しかし、あるいは何人もの血のつながりの中で、ようやく一人のラムネ氏が現れるのかもしれない、と考える。
そして、自分のように怖がって食べない人間の中には、ラムネ氏は決していない、と。
このエッセイはもう少し後に続くが、先生が思い出したのは、このフグの件だった。
先生は、坂口のように、時代の中に時折現れる勇気ある人々によって様々な発見がなされた、と考えていた。
しかし、「君の説を信じれば、それの方がもっともらしく感じられる。」と、言った。
そもそもフグを試すことは、坂口が感服しているほどの英雄的な勇気ではなかったかもしれないのだ。
自然の中で、食べて、暮らしていれば、毒に当たることもある。それはいずれは仕方のないことで、生きるために死んだのだから、勇気というよりは自然なのだ。
そこから後代の人が学ぶ、というのは、歴史の力であって、人間による文明の働きに過ぎない。
「これを食べると死ぬかも知れぬ。しかし、我々と自然の共生にとって、その程度のことがなんであろうか。私は死ぬが、私を私たらしめている世界は死なない。では、私はしばしば世俗を去るに過ぎない。」
古来の人々が、誰でもここまで悟っていたとは思わないが、こうした精神性の面影をオラン・アスリの人々に見るのは、あながち間違いでもないだろう。
ここに、欧米中心社会が見失った、あるいは最初から知ることのできなかった人間の精神性のもう一つの方向がある。
日本という国に生きる人々も、かつてはオラン・アスリの人々に似た精神性を生きていたはずである。
それが戦後を境に大きく変わってしまい、もう元に戻せぬことは、誰もが奥底で承知しているだろう。
悔やまれるようにも思うが、これもまた、大きな流れに過ぎない。
私たち近代以降の日本人は、敗戦を契機に、東洋的世界観と西洋的世界観の微妙に混濁するなかで、他の地域に生きる人々からは想像もつかぬほどの複雑怪奇を暮らしている。
それはそれとして受け入れて、しかし、これを強く"自覚"して生きなければ、私たちに他に道はないのだ。
よくもわるくも、日本人には、日本という風土でしか育たぬ人間性がある。
いくら時代や思想が変わっても、土地と人間の深い関係は変わることはないだろうから。
※あとがきメモ※
坂口の『ラムネ氏のこと』が発表された昭和16年の暮れ、首相となった東條英機の下で、真珠湾奇襲、マレー半島侵攻が行われた。
何の因果か、このアジアへの侵略で、日本はその凄まじい戦闘力を見せつけ、イギリスによるアジア圏への植民地支配の勢いを挫き、後にマレーシアとなるマラヤ連邦がイギリスから独立する流れを形成したのだ。
そのマレー半島の先住民の暮らしから、現代の日本人が、かつての日本人の暮らしを夢想しているとは皮肉なことだ。