見出し画像

メモ 機甲師団はどのような編成で運用されるべきなのか?

1955年に主権を回復し、再軍備を開始した西ドイツは、北大西洋条約機構(NATO)の一員としてソ連に対抗する方法を模索し始めましたが、そのときの重要な検討課題の一つが機甲部隊の編成と運用でした。1959年に北部のニーダーザクセン州リューネブルクで実施された実験演習で、NATO方式に基づく戦車旅団で機械化歩兵旅団を攻撃する状況が想定されたのも、機甲戦の運用研究のためでした。

第二次世界大戦(1939~1945)でドイツの軍人として戦い、戦後は機甲戦に関する著述を残したヘルマン・ホート(Hermann Hoth, 1885-1971)はこの演習を踏まえ、機甲師団の意義を再評価するように求める考察を書き残しています。ホートは、核火力の使用が想定される冷戦の時代において旅団編制の重要性が増したことを認めていますが、機甲部隊を旅団に分割するだけでは不十分だと考えました。その機動打撃力を最大限に発揮するには、師団編制をとることが重要であり、この見解を裏付けるために自らが直接的に経験した第二次世界大戦の事例を参照しています。

第二次世界大戦の初期にドイツが軍事的優位を獲得した要因の一つとして、機甲部隊の運用が成功を収めたことを挙げることができますが、当時の作戦に参加したホートは「ドイツ装甲師団は、充分な経験も持たぬまま、政治指導部が展開させた第二次世界大戦にのぞんだ」と準備不足があったことを指摘しています(邦訳、ホート、385頁)。1939年の秋の演習においてドイツ軍は大規模な機甲部隊の運用を検討する予定だったのですが、これは第二次世界大戦の勃発によって中止されたため、装甲師団の編制に軍事的な課題があることが認識されたのは戦争が始まった後になりました(同上)。

装甲師団の軍事的な課題の大きな要素だったのは師団長が部隊の機動を統制しきれないということに起因していました。師団が前進する場合、隷下部隊を行軍させる必要がありますが、これは一本の道路で実施できない場合が多いため、複数の縦隊を組み、異なる道路を進むことが教範で指定されていました。この行軍縦隊は複数の兵科部隊で編成されていましたが、やがて戦闘行動を遂行する戦隊(戦闘団)編成の基礎となっていき、師団のさまざまな任務達成にこれが使用されるようになっていきました。装甲師団の主力である戦車を中心としては、自走砲、対戦車自走砲、歩兵戦闘車からなる装甲戦隊(gepanzerte Kampfgruppe)があり、これが装甲師団の主力となりました(同上、383頁)。

「こうした発展について、装甲部隊の高級指揮官たち(軍団長、軍司令官)が懐疑を抱いていなかったというわけではない。が、平時に常用されていた訓練原則のもと、戦時編制の建制上で隷下に置かれた戦車、歩兵、砲兵などの指揮官に対して命令を出すことに慣れていた師団長たちは、いよいよ下級指揮官がそうした任務を引き受けるようになってきたものとみていた。しかし、下級指揮官が率いる本部は、そのような任をこなすには、指揮の補助にあたる人員や通信手段が不充分であるし、かかる混成団隊指揮のために人物や訓練を基準として選び抜かれた要員を配しているわけでもなかった」

(同上、385-6頁)

ドイツ軍の戦隊運用は成功した例として評価されることが多いのですが、当時を知るホートとしては、それを手放しで評価できないと見ていました。戦隊の編成は他に有望な選択肢がなかったための即興的な対策であったため、師団の運用においては弊害がありました。それは師団長が部隊を戦隊を掌握することができなかったことであり、主力である装甲戦隊を掌握を重視すると、他の部隊の掌握が追い付かなくなり、一体的な師団の運用が難しかったとされています(同上、386頁)。

1942年12月12日、スターリングラードで敵に攻囲され、完全に孤立していた味方を救い出すため、ドイツ軍の第6装甲師団が攻撃戦闘に投入されましたが、このときも師団の運用として大きな課題があったとされています(同上、397頁)。この師団の戦力は3個の戦隊に編成されましたが、特に重要な役割を果たすことになったのが第11戦車連隊(戦車大隊2個、戦車160両)を中核とする装甲戦隊であり、第11戦車連隊の連隊長がこれを指揮することになりました。連隊長の下に歩兵部隊、砲兵部隊が配属され、諸兵科連合部隊として戦闘を遂行できる態勢がとられました。

12月12日に師団が一斉に攻撃前進を開始した直後、装甲戦隊は師団長の命令によって別の戦隊の支援に向かうことになり、当初の経路から旋回することを余儀なくされました(同上、398頁)。この支援が結局不要であることが分かったので、装甲戦隊は当初の前進目標だったアクサイ川に進み、翌13日には北岸へ進出しますが、この時点で部隊は他の部隊から大きく遠ざかり、相互支援が困難な上クムスキーにまで進出してしまいました(同上、398-9頁)。14日に上クムスキーに現れた敵部隊を装甲戦隊は退けていますが、多くの弾薬を消費したために、一時的に後退を強いられました(同上、399頁)。装甲戦隊は主動的な地位を維持しようとし、12月17日に隣接する第23装甲師団隷下部隊の戦車を一時的に指揮下に置き、攻撃を実施しましたが、これは敵の対戦車防御陣地で阻止され、14両の戦車を失いました(同上)。この段階で戦闘力は限界に達したので、第6装甲師団は隣接する第17装甲師団と連携しながら、残りのすべての戦力を攻撃に投入し、敵を後退させています(同上、399-400頁)。

ホートは、この戦闘の記録を調べると、第6装甲師団の師団長は3個の戦隊をより緊密に協同させるべきであったと評価しています。「第11戦車連隊長は、おおむね主導権を握っていた。けれども、彼は、ほとんど知らされないままだった全般的情勢によってではなく、局地的な戦況をもとに決断を下したのだ。師団長が彼を自由に行動させたおかげで、上クムスキーでばらばらの戦闘に突入することになったのである」と当時の師団長の戦闘指導を批判しています(同上、402頁)。装甲戦隊が12月14日の時点で作戦上、間違った陣地を占めたことが明らかだったので、それを退却させ、師団としての作戦行動に一体性を持たせることが師団長の責務であり、装甲戦隊が燃料や弾薬の補給を途切れさせないように注意すべきだったというのがその理由とされています(同上)。しかし、こうした問題が発生したのは、当時の師団長だけの責任というよりも、装甲師団の編制が潜在的な要因としてあったことをホートは認識しています。

こうした事例分析を踏まえ、ホートは2個の戦車旅団を1個の装甲師団の固有の編制部隊として置いておくことを提案しています。師団の内部に適切な指揮統制の機能を備えた諸兵科連合部隊がなかったので、戦車旅団にその機能を委ねることによって、問題を解決することができるという考え方がとられています。戦車旅団は2個の戦車大隊と1個の装甲擲弾兵大隊を運用し、戦闘指導における師団長の負担を軽減します。また、複数の戦車旅団を1個の装甲師団にまとめておく必要については、敵の後方地域に対する連続打撃を行う上で2個の戦車大隊と1個の装甲擲弾兵大隊だけでは戦闘力がすぐに限界に達するためであるためだと説明しています(同上、432-3頁)。

見出し画像:Bundesarchiv, Bild 183-B28822

参考文献

ヘルマン・ホート『パンツァー・オペラツィオーネン:第三装甲集団司令官「バルバロッサ」作戦回顧録』大木毅訳、作品社、2017年

関連記事

調査研究をサポートして頂ける場合は、ご希望の研究領域をご指定ください。その分野の図書費として使わせて頂きます。