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軍事史で指揮システムの発達過程を追ったCommand in War(1987)の紹介

指揮(command)とは、組織から与えられた権限に基づいて、部隊や個人に対して自らの意志を示し、それに従わせることをいいます。指揮を行う指揮官と、その指揮を受ける部下との上下関係を指揮系統(command channel, chain of command)といい、指揮するために必要な人員、装備、施設を組み合わせたものを指揮システム(command system)といいます。ちなみに、指揮に付随して部隊が守るべき義務に反していないかを監視し、必要に応じて指示を出すことを監督と呼びます。

指揮システムは軍隊の制度と運用を理解する上で重要なテーマの一つです。なぜなら、指揮システムの効率性は、戦闘力を組織化し、それを作戦において運用する方法を絶えず制約するためです。マーティン・ファン・クレフェルトの著作『戦争における指揮(Command in War)』(1987)は、指揮システムの発達過程を追跡した研究業績であり、軍隊の制度がどのような経過で発展してきたのかを理解する上で参考になります。

van Creveld, Martin. (1985). Command in War, Cambridge, Mass.: Harvard University Press.

著者は、指揮システムの発達をたどるために、いくつかの歴史的な事例を取り上げ、それらを詳細に比較しながら議論を進めています。近代的な指揮システムの原型が見出せる事例と位置付けられているのがナポレオン戦争です。

1804年から1815年まで続いたナポレオン戦争は近代的な指揮システムの萌芽が見られた重要な事例でした。この戦争でフランス皇帝ナポレオン一世は管理能力に優れたルイ=アレクサンドル・ベルティエの下に多数の参謀を集め、自身の指揮官としての業務を体系的に補佐させることにしました。総司令部では文書管理、命令作成、情報業務、人事業務、兵站業務などが遂行されており、ナポレオンが決定を下すと、指揮下部隊に命令が迅速に伝達されていました。ドイツ・ポーランド戦役では、この指揮システムが勝利に大きく寄与した戦役であったと著者は論じています(事例の詳細は第四次対仏大同盟を参照)。

1806年10月11日の夜から12日の未明にかけて、ナポレオンは作戦命令を発行しました。この命令は文書の形式で伝達されることになりましたが、当時、ルイ=ニコラ・ダヴー元帥の軍団は、ナポレオンがいた司令部から4.5マイル(7.2キロメートル)離れた陣地を占めていました。当時の記録によれば、午前5時に司令部から発出された命令をダヴーは午前6時に受領し、午前7時には部隊の移動を開始させています。

ナポレオンの命令下達から行動開始までの所要時間は2時間ということになります。ピエール・オージュロー元帥の軍団は司令部から20マイル(32キロメートル)離れた陣地にいましたが、午前5時30分に発された命令を午前8時15分に受け、午前10時に移動を開始しました。この際の所要の時間は4時間30分でした。このように、ナポレオンが数十万名の規模の部隊を自分の手足のように展開させることができたのは、総司令部において時間の空費を最小限にとどめる指揮システムを利用できたためでした。

ただし、ナポレオンが導入した指揮システムは、依然としてナポレオンの個人的な能力に依存する部分が多く残されていました。例えば、ナポレオンは自らの手で情報資料を選別することにこだわっていたので、総司令部には敵地に奥深く潜入したスパイからもたらされる情報資料から、各部隊の斥候がもたらす情報資料までもが処理されない状態で報告されていました。また、参謀の能力にはばらつきがあり、欠員が生じると、それを適切に補充することができなかったとも指摘されています。

19世紀のプロイセン陸軍で参謀総長となったヘルムート・フォン・モルトケは、参謀本部の改革を進めるだけでなく、参謀を養成する教育機関として陸軍大学校を設置し、その卒業生で参謀の欠員を補充できる人事体制を確立しました(【翻訳資料】プロイセン陸軍の将校教育を解説した「陸軍大学校」(1890)を参照)。教育制度を幕僚組織と関連付けたことは、指揮システムの近代化に大きく寄与した要因であり、それ自体が詳細な検討に値するものですが、著者はモルトケはまだ目新しかった電信を取り入れたことも評価しています。プロイセン軍が当時としては最先端の通信技術を導入したことは注目に値しますが、著者は通信技術の改善だけが指揮システムの効率を決めるわけではないことを具体的な事例に基づいて述べています。

1866年の普墺戦争では、プロイセン軍が複数の方向から作戦を遂行しました。西部から第一軍とエルベ軍を、東部から第二軍をそれぞれ前進させ、オーストリア軍を東西から挟撃しようとしたのです。このとき、プロイセン軍の指揮システムの効率が試される場面がありました。6月30日の午前、モルトケはベルリン発、ライヒェンベルク(現リベレツ)行きの列車に乗車し、途中停車した駅で各軍の司令官に宛てた短い電報を打っており、東部から前進していた第二軍の司令官に対して部隊の前進を一時停止するように命じました。送信した時点でモルトケは6月27日、28日の戦況を把握していたのですが、29日に生起したジチン(現イチーン)の戦闘で西部から前進していた第一軍が敵に対して勝利を収めていたことを知りませんでした。

30日の夕方にライヒェンベルクの駅に到着したとき、モルトケはようやく29日に第一軍がジチンをすでに攻略していたことを把握しました。しかし、驚くべきことに、第二軍はエルベ川の渡河をすでに始めていることが分かりました。第二軍の報告によれば、指揮下部隊の第一軍団はすでに渡河を完了しており、残りの部隊は翌日以降に逐次渡河するとのことでした。

このような事態が生じたのは、通信に不具合があったためでした。モルトケはエルベ川の左岸にとどまるように第二軍司令官に命令を下していることを繰り返し述べ、この命令を受領できたのか、あるいは、何か全軍を渡河させるべき何らかの理由があるのかを確認しようとしました。第二軍司令官は7月1日にこの電報を受け取ることができましたが、暗号化の手続きに間違いがあったために、通信文の内容が不可解な文章になっていました。渡河を停止せよというモルトケの命令が受領できたのは7月2日の午前0時15分でした。第二軍司令官は、ジチンの勝利の成果を利用して、敵部隊を追撃しようとしていたので、これに不満を覚えましたが、翌朝にモルトケが進出したジチンで開催される作戦会議に出席しています。

これは戦役全体の一場面でしかありませんが、戦争の混乱の中で指揮システムがどのような試練に晒されるのかをよく示していると思います。こうした出来事があったものの、モルトケは参謀本部を通じて指揮下部隊の戦術行動に対する統制を強めることはありませんでした。ただし、決定的な勝利を収める上で戦略上必要とされる行動に関しては厳格に統制する姿勢は崩しませんでした。著者は、部隊の行動を戦略、戦術の段階に応じて区別し、戦略を集権的に、戦術を分権的に統制する指揮システムを確立したことをモルトケの功績としており、第一次世界大戦以降の軍隊の指揮システムの基礎として受け継がれていったと考えています。

この記事では第3章と第4章の内容を中心に紹介していますが、著者の議論が興味深いのは第5章以降であり、そこではプロイセン軍の参謀本部の仕組みを取り入れたドイツ軍の指揮システムが、第一次世界大戦でイギリス軍の指揮システムに効率で優っていたことが論じられています。イギリス軍の指揮システムは、下級部隊の戦術行動を厳格に統制しようとしたので、そのために戦闘行動には柔軟性、自由度が欠落していました。ドイツ軍は近代戦に特有の戦況の流動性、浮動性に組織として適応することができたのは、指揮システムの優位によるところがあったというのが著者の解釈です。この解釈を踏まえ、第7章では1945年以降の軍事史を複雑性(complexity)の時代と呼び、それぞれの階層の部隊行動に任務遂行の方法を柔軟に選択できるようにする余地を持たせる指揮システムが重要になってきていると論じています。

著者は指揮システムに情報通信技術の成果を取り入れるだけではかえって逆効果になる恐れがあるとも述べています。上層部に情報が迅速に届けられるようになれば、上層部はますます現場の部隊に細かな報告を求めるようになり、さらに部隊の運用に関しても詳細な指示を出してくる可能性が出てくるためです。この弊害を説明するため、著者はベトナム戦争においてアメリカ軍が張り巡らせた情報管理の仕組みが、結果的に部隊の運用を阻害していたことを指揮システムの問題として取り上げています。そこでは「情報資料の病理(information pathology)」という言葉が使われています。これは現代の組織運営を考える上でも注意を要する問題だと思います。軍隊の制度や運用を指揮システムの観点で考える上で、著者の業績は重要な足場を築いており、今でも調査研究に一定の方向性を与えているのではないかと思います。

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