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❓❕【哲探進歩/てったんしんぽ】❕❓…11歩目(読めるのに分からないという違和感)

🐾11歩目(読めるのに分からないという違和感)🐾
(「散歩」で気づきを得て、「探究+哲学」で考察を重ね、「進路」で学問・仕事と結びつける)

「散歩…気づきの土台・地面」
馴染みのある文字に出会うとホッとする。タイやラオスだと、タイ語もラオ語も文字として認識できていないので、看板などに漢字・平仮名・カタカナで表記された日本語を見かけると、ホッとする自分がいることに気づく。アルファベットにも同様の感情を抱くのは、文字として認識できるかどうかが関わっているのだと思う。マレーシアなどを訪れたときを振り返ってみると、アラビア語を文字として認識できていなかったのは、タイ語やラオ語の場合と似ている。

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「探究<課題の設定>…気づきの芽」
しかしマレーシアでは、タイ・ラオス・シンガポールなどでも文字として認識できていたアルファベットに違和感を覚えるときがあったのはなぜだろうか(❓)。

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「探究<情報の収集>…気づきへの無機養分」
或る文字を文字として認識できるのは、文字の形状またはその文字の発音の仕方が理解できているときであろう。漢字・平仮名・カタカナは日本語として何度も使っているので、理解できているわけである。これまで使ったことのない複雑な漢字(例えば、「ビャンビャン麺」のビャンという漢字、画数が多すぎて漢字変換できない)についても、発音は分からずとも、文字だと分かるのは、漢字の一般的な形状を理解しているからだろう。

タイ語やラオ語については、発音も形状もほとんど理解できていないので、それがタイ語かラオ語かの区別はできないし、いたずら書きされたデザインだと思って、文字だと気づかない場合だってある。私にとっては、アラビア語も同じ状態である。

この点についてハングルは、漢字・平仮名・カタカナほど文字としての理解しているわけではないが、タイ語・ラオ語・アラビア語よりは何となく形状が分かっているので、両者の中間かもしれない。

アルファベットの場合は、形状も発音も理解できているので漢字・平仮名・カタカナの部類に入る。それにも関わらず、マレーシアでアルファベットを見たときに違和感を覚えたのは、アルファベットが並べられて構成される単語の「意味」が全く分からなかったからである。それは英単語の語彙力という問題ではなかった。アルファベットで構成されたその単語は、マレー語だったのである(マレー語は現在、独自の文字ではなく、アルファベットによって音を表現している)。

例えば、「JALAN(ジャラン)」「WISMA(ウィスマ)」「KEDAI(ケダイ)」「NASI(ナシ)」「BAHAYA(バハヤ)」「TAMAN(タマン)」など、発音はできるのだが、意味は分からない。調べてみるとJALAN(ジャラン)は「道・通り」、WISMA(ウィスマ)は「建物(家、オフィス、ゲストハウス)」、KEDAI(ケダイ)は「お店」、NASI(ナシ)は「ご飯」、BAHAYA(バハヤ)は「危険」、TAMAN(タマン)は「公園」という意味であることが分かった。

これらはアルファベットの音のルールに従い、発音できたとしても、マレー語が分からない私にとっては、全く意味が分からないものだった。そして、マレーシアで見かけるアルファベットについては、英単語または英単語の響きを表記したものと、マレー語の響きを表記したものが存在している。その結果、英単語または英単語の響きを表記したものならば意味まで認識できたが、マレー語の響きを表記したものは文字として認識できても意味までは認識することができなかったわけである。

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「哲学…気づきへの水」
スイスの言語学者であるフェルディナン・ド・ソシュールは「言語とは諸記号の一体系である」という名言を残している。これは言語というものが、或る対象を必然的に意味づけているものではなく、もともとは単なる記号であったものが集まり、そこに作為的な形で意味が与えられたものであって、あくまでも言語は記号を用いたシステムにすぎないということである。そして、その記号(シーニェ)には「シニフィアン」と「シニフィエ」という2つの側面があるとソシュールは考えたのである。シニフィアンは「或る意味に関わる音」であり、シニフィエは「意味の対象・内容そのもの」である。

例えば、「道」という音であるシニフィアンは、「車や人などが行き来する場所」という対象・内容であるシニフィエと結びついている。しかしそれは日本語という言語および記号のシステムに基づくものである。日本語を知らない人が「道」と聞いても、頭の中に「車や人などが行き来する場所」はイメージされない。

このような或る社会で形成される言語および記号のシステムのことをソシュールは「ラング」と呼んだ。このラングが共有されていなければ、「道」と発音・発話されたとしても、対象・内容は相手に伝わらないのである。そのため、異なるラングにおいては「ROAD」と発音・発話されることで「車や人などが行き来する場所」という対象・内容がイメージされることになる。この場合のラングは英語ということになる。

さらに、このROADというアルファベット記号の組み合わせと音が「車や人などが行き来する場所」という対象・内容を必然的に意味するわけではなく、英語という言語および記号のシステムでは結果としてそうなっているにすぎないのである。そしてマレー語という言語および記号のシステムにおいては、JALANというアルファベット記号の組み合わせとその音が「車や人などが行き来する場所」という対象・内容をイメージされることになるのである。

「探究<整理・分析>…気づきの剪定」
私はここまでの内容も含めデータ・チャートを使いながら、考察をスライドにまとめることにした。

まず文字としての認識は、文字の形状を認識できる側面と、その文字の音を認識できる側面に細分化される。例えば、タイ語やラオ語やアラビア語はそれが形状として文字なのかどうか分からないし、音も分からないのだが、ハングルの形状については、これまで目にする機会が多かったためか、文字としての認識は多少できる(一つひとつの文字を正確に差別化できているわけではないが)。しかしその文字がどんな音になるかは分からないというように、形状の認識と音の認識は常に同じレベルとは限らないので、項目として分けておくことにした。

それから意味の認識は、その単語がどんな対象・内容を示しているのかに関わるものである。私の場合、ハングルは形状としては多少認識できていたとしても、音も意味も認識できない。マレー語の場合は、アルファベットが使われているので、形状や音は認識できるのだが、その音を聞いても、どんな対象・内容を示しているのかはイメージできないので、意味の認識はほぼできないということになる。

日本語についてはどの項目も大体認識できるというレベルである。一応、英語も同じ扱いにしてはいるが、語彙力の問題から意味が分からないものはあり得る。だがそれは個別的な単語の話であり、全体として英語という言語の認識レベルでは、大体認識できるというニュアンスである。

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「探究<まとめ・表現>…気づきの花」
今回の出来事から、言語というものには、形状や音に関して「文字として認識できるか否か」という側面と、複数の文字で構成された単語を「意味として認識できるか否か」という側面があることが分かった。

そして、私がマレーシアの看板などに違和感を覚えることがあったのは、アルファベットを普段は英語に関わるものと捉えていて、そのときは形状も音も意味も認識できるのに、マレー語も同様にアルファベットを使っているため、形状と音は認識できるのに意味が全く分からず頭の中でエラーが生じたからと考えられる。馴染みのあるアルファベットであっても、異なる言語および記号のシステムとしての「ラング」に基づくと、意味は認識できなくなり、それが違和感となったわけである。

このような違和感と似ているのが、東ヨーロッパやコーカサスの地名の変更かもしれない。これらの地域の地名で変更の動きがあったものとしては、「キエフからキーウ」「チェルノブイリからチョルノービリ」「ドニエプルからドニプロ」「グルジアからジョージア」などがあげられる。
Similar to this discomfort may be the change of place names in Eastern Europe and the Caucasus. Some of the place names in these areas have changed, such as "Kyiv", "Chernobyl", "Dnipro", and "Georgia".

 これらの地名の発音の違いは、政治情勢や歴史的背景が関係している。これらの変更は、ソ連時代から続くロシア語での発音からの脱却である。ウクライナやジョージアはすでに政治的に独立しているわけで、地名などの歴史的・文化的な要素についても独立性を求める姿勢は十分に理解できる。ただ、これまで自分が学校の授業やニュースなどで見たり聞いたりして馴染みがあった地名の表記や音が変わることに違和感があるのも事実である。また、ウクライナにしても、ジョージアにしても、ロシアと対立する関係になっていなかったならば、地名の表記や音を積極的に変えていたかどうかは分からない。
The difference in pronunciation of these place names is related to the political situation and historical background. These changes are a departure from the Russian pronunciation that has continued since the Soviet era. Ukraine and Georgia are already politically independent, so we can fully understand the attitude of seeking independence in historical and cultural factors such as place names. However, it is also a fact that I feel uncomfortable with the change in the notation and sound of place names that I have been familiar with when I see and hear them in school classes and news. Also, neither Ukraine nor Georgia, if they were not in conflict with Russia, it is unknown whether they were actively changing the notation and sound of place names.

 しかし地名の表記や音は、その国や地域の歴史や文化に関わるもので、アイデンティティまたはナショナリズムの主要な部分である。かつてのソ連や昨今のロシアによる支配によって、ウクライナやジョージアのアイデンティティまたはナショナリズムの炎が大きくなったのは事実であろう。
However, the notation and sound of place names are related to the history and culture of the country or region, and are a major part of identity or nationalism. It is true that the former Soviet and recent Russian rule has exacerbated the flames of Ukraine and Georgia's identity or nationalism.

「進路…気づきの果実」
今回の考察によって、言語の認識は、形状・音・意味に細分化され、同じ言語であってもそれぞれの認識レベルが同一とは限らないことが明らかになった。ここから、学問の一例として「言語学、論理学、哲学」など、仕事の一例として「外交官、通訳、ガイド、翻訳家」などが連想される。

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