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🇹🇭タイ編

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渡タイは年2回ペースで20年。マガジンの使い方がよくわからないのでここに集めよ。
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#バンコク

🇹🇭鼓膜切開サミティヴェー

🇹🇭鼓膜切開サミティヴェー

カバンの奥に保険証書と連絡先の書いてある紙があった。

今や電子媒体が主の時代。
それでもホテル予約書やチケットなどなんでも紙でも念の為持つ

スマホの電池切れでも確実なる安心が欲しい。それが元バックパッカーの性である

現地連絡先窓口にかけると予想通りサミティヴェート病院を紹介された。トンロー地区の超ハイソな病院だ。

タクシーに乗る。相変わらず水の中で沈んでいるかのような聴力。ドライバーが「健

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🇹🇭中耳炎と海外保険

🇹🇭中耳炎と海外保険

息巻いたものの旅行記を書くのもなかなか大変。記憶の限りノートに起きた出来事を書き連ねては閉じる、を繰り返している。

五年ぶりの渡タイは圧倒的な「パラダイムシフト」だった。全世界が混乱し、従来の価値観が根底から崩れて再構築される。

コロナ渦が観光立国においていかに凄惨な爪痕を残したか、痛感せざるを得なかった。

さて、ここまでは前置きである。
皆さんは飛行機の離着陸時に耳を痛めた経験があるだろう

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🇹🇭パラダイムシフト'24

🇹🇭パラダイムシフト'24

代々木から成田エクスプレス。
5年ぶりだった。

渡タイ。

このNOTEというアプリを見つけたのは、
コロナが始まった頃の旅への羨望からだった。

5年、である。

少しずつリハビリのように書いていこうと思うが、結論を書く。

「NO MORE ビフォーコロナ」

上手い言い方が見つからないが、
コロナ渦以前にタイは活力を戻している、などの噂は全くの嘘だった。

いや嘘と言ったら失礼だ。

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🇹🇭哀愁、バックパッカー

🇹🇭哀愁、バックパッカー

約3年ぶりの投稿である。
コロナ禍が明けると、一見以前と変わらぬ暮らしが戻ったように思うが、海外旅行好き、特に2000年前後にバックパッカーにハマった中年層には溜息が出てしまう様相ではないだろうか。

1ドル150円

先進国だった日本からあえて貧乏宿に泊まり、不衛生な食事でいかに安いかを自慢し合う旅。

先進国の国から絶対貧困のスラム街や売春街を練り歩く当時の日本人は、心のどこかに「日本は恵まれ

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🇹🇭ゲストハウスに馴染めなくなった時。

🇹🇭ゲストハウスに馴染めなくなった時。

インドシナ半島へ何度も足を運ぶ内に気づいたことがある。バックパッカーを名乗る事ができなくなった起点がある。

それにどうやって気づいたか?
「ゲストハウスを転々と出来なくなった」時だ。

新宿ビル群を背にして成田から経ち、何度も何度も執拗に足を運んだバンコク。「バックパッカー」という言葉に自意識過剰なまでに固執した。

貧乏旅行、というスタイルを言い訳にして年月が経ち、30代を迎えた頃、突然ゲスト

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🇹🇭バンコクからチェンマイ〜寝台列車にて 2002

🇹🇭バンコクからチェンマイ〜寝台列車にて 2002

20年前の写真である。当時の私はデジカメを持ち合わせていなかった。(まだ200万画素程度のコンデジが出始めだ頃だった。)

だから今回掲載する写真はフィルム写真をデジタル化したものとなる。

バックパックにモノクロとカラーのフィルムを数十個詰め、旅立ち、どのような写真が撮れたかは当然現像前なので分からないまま帰国。

手荷物検査のX線でフィルムがダメにならないかヒヤヒヤしながら。写真屋に頼んで出来

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🇹🇭旅情:ジュライホテルへの畏怖。カオサン組より。

🇹🇭旅情:ジュライホテルへの畏怖。カオサン組より。

もっかコロナ禍が3年目。
タイへの渡航欲が増すばかりだが、
止まらない円安に溜息をつくばかり。

書棚の財布を開けると最後の渡タイである2019年末の残りのバーツ札がぎっしり入っている。

…と言ってもそれは大袈裟で、せいぜい二万バーツくらいだろう。

notesに記事を投稿してはインドシナ半島と沖縄を反芻していたのがコロナ直後。あれから2年。

久しぶりに開き閲覧された記事のレビューを見ると

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🇹🇭ジュライホテルとヤワラーと。

🇹🇭ジュライホテルとヤワラーと。



2018年。ファランポーンとヤワラー界隈を散策してから三年が立つ。まさか未来に疫病との戦いが迫っているとは思いもよらず。

最後の訪タイは2019年末。
バンコクのホテルでスマホをみる。
ニュースには小さく「武漢で新型のウィルス」
とあった。何も脅威は感じなかった。

久しぶりにNOTEを開いた。
ヤワラーのジュライホテル界隈のトピックの閲覧数が桁外れだった。

なぜか。推測にしからないが、

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🇹🇭なぜジュライホテル・楽宮ホテルは人を魅了するのか@ヤワラー2017

🇹🇭なぜジュライホテル・楽宮ホテルは人を魅了するのか@ヤワラー2017

なぜこんなにもジュライホテルの廃墟は私を引き付けるのか?

ヤワラーのジュライホテル。かつて日本人バックパッカーが沈没していたホテルの廃墟。私は寂れたこの地域から離れたくなくなっていた。

カオサンのしかも後発組の私からすると、ジュライホテルの全盛期のバンコクを経験するには数十年遅く生まれていた。

この数十年で変わり果ててしまったバンコク。それよりもさらに数十年遡るバンコクを根城に沈没していた男

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🇹🇭GoProを愛した頃 '14 プーケット

🇹🇭GoProを愛した頃 '14 プーケット

GoPro熱が冷めない。2014年ごろのプーケットの写真を見ると、GoProの動画こそないが、画像としての良さも際立つ。

プーケットの海の中に入り、このような写真を撮れるのもGoProならでは。もはや動画撮影を諦めて「水中カメラ兼用超広角小型カメラ」として使っていた頃だ。

こちらはトゥクトゥクの後部座席から。動画も撮りつつ、やっぱり写真。

もうこうなるとヤケクソだ。GoProで撮る必要ない風

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🇹🇭タイ人にビーチへ誘われるとこうなる@南部のある村2008

🇹🇭タイ人にビーチへ誘われるとこうなる@南部のある村2008



「ビーチに遊びに行こう」タイ人からこう誘われたらどんなイメージを持ちますか?このタイ最南部のマレーシアに届きそうな田舎町で、家族総出で誘われた。

てっきり、当時の私は張り切ってビーチで遊ぶ準備をした。水着、ゴーグル、サンダル。

炎天下のタイでそんな遊びをビーチでするわけがなかったのだ

まず、皆んなで海から少し離れた木陰を探す。出来る限り日が当たらない場所を見つけたら、持ってきた料理をシー

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🇹🇭絶景、タイ南部の干潟@とある町2009

🇹🇭絶景、タイ南部の干潟@とある町2009

2008年以降、私はマレーシアに近い、タイ南部に入り浸っていた。地域の人々とも顔見知りになり、ここを安住の地にしても良いかと思うようになった。

ゴムの木の畑が延々と続く田舎。
たまにはビーチに出るのも良いと言うことになり、一泊二日で海側で宿を取った。

夕暮れ海岸に出ると潮が引き、遠浅の干潟が延々と続いていた。圧巻だった。

ここは、昼間全て海だった。それが全て干潟になっている。人は誰もいない

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🇹🇭ファランポーン駅が旅の原点だった@バンコク2004

🇹🇭ファランポーン駅が旅の原点だった@バンコク2004



2004年のバンコク。民主記念塔に向かう大通りの写真だ。私の写真のデータはこの時からデジタルデータに変わって残っている。たかだか16年前のバンコクの写真を今見るだけで古臭く感じる。

・車やバイク好きなら走る車種で時代を見る
・ファッションなら人々の衣服やメイク
・建築物なら背景の建物

一枚の写真だけで大体の年代は分かる。それだけ発展期の国は移り変わりが早いのだ。

本題に入ろう。この頃の私

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🇹🇭四肢麻痺のバイクタクシー@パッポン2015

🇹🇭四肢麻痺のバイクタクシー@パッポン2015



「疲れた」
アソーク駅周辺で悶々としていた。

「10年ぶりにパッポンに行くか」私はタクシードライバーの兄ちゃんに声をかけた。「パッポンに行きたいんだ」

任せとけ、と笑い、誰かを呼びに行った。バイクタクシーの中で暗黙のルールがあるらしく、順番待ちのようだ。声をかけたドライバーが先頭待ちのトップとは限らない。

「コイツさ、コイツがあんたのドライバーさ」3人くらいの先輩ドライバーに付き添われ

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