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神社におねがいにいく。

いつもお参りにいく神社。
大高山神社は宮城県柴田郡大河原町にある神社。
春になると一目千本桜が有名な大河原町のなかでも国道沿いにある桜の名所でもある隠れ花見スポット。

祭神は主祭神が
日本武尊(ヤマトタケル)
橘豊日尊(用明天皇)
合祀神が
迦具土命(ヒノカグツチノカミ火の神)
大山祇命(オオヤマツミノカミ)
倉稲魂命(ウカノミタマノミコト国津神、稲荷神)
火産霊命(カグツチ火の神)
白山菊理媛(ククリヒメノカミ、シラヤマヒメノカミ)

創建
社伝によれば、大高山神社は敏達天皇元年(572年)に日本武尊を主祭神として創建されたという。当神社の縁起書や『安永風土記』『奥羽観蹟聞老志』(おううかんせきもんろうし)などによれば、日本武尊が蝦夷征伐のための東征の折に仮宮を立てて住んだと伝わり、その仮宮の跡地に「白鳥大明神」と称する社殿を設け、日本武尊を奉斎したという。

また伝承によれば、崇峻天皇2年(588年)には主祭神として橘豊日尊(用明天皇)が合祀された。これは、用明天皇が橘豊日尊と呼ばれた皇子の頃、勅命により当地へやってきたことがあり、用明天皇の皇子である聖徳太子がその縁を持って大高山神社へ合祀したと伝わる。

概史
『続日本後紀』によれば、承和9年(842年)には従五位下の神階を授けられ、貞観11年(869年)3月には従五位上に昇叙した。享保20年3月には宗源宣旨により神階最高位である正一位の位階を得た。また、大高山神社は延喜式神名帳において陸奥国内百座のうちの一座であり、十五座ある名神大社のうちに列する。

なお、往古は神社の北東にある金ケ瀬地区新開(旧柴田郡平村)の台ノ山に鎮座していたが、元禄時代初期に起きた火災により社殿が消失したため、金ケ瀬地区の新開126番地に遷座し、大正3年に新開から現在の鎮座地である金ケ瀬地区の神山へと移築・再遷座した。現在も新開126番地の旧社地には鳥居と石祠が鎮座している。

引用元:Wikipedia

神様におねがいするときは、神様のおねがいを聞いてあげる。

みんな神社にいくとき勘違いしてる人が多いけど、神社は神様に願望を叶えてもらう場所じゃない。
神様のお願いを聞きに行く場所。感謝する場所。
そのついでにお願いを聞いてもらう。
そう、すべてはギブアンドテイク。
神様やご先祖様、周囲の人を大切にできない人のお願い事なんて聞き入れてくれるわけがないのだからという意味。
巷では、逆手の法則というらしい。

意外と神様への挨拶わすれがち。


祝詞(のりと、しゅくし)の意味

祝詞は「人から神様への奏上(そうじょう)の言葉」もしくは「神様が集まった人々に聞かせる言葉」のことをいいます。それは神様に対して失礼のないように最も丁寧な言葉や尊敬した言葉を使い、気持ちをあらわす言葉の捧げものになります。

時間がないときは略拝詞を心のなかで唱えよう。

略拝詞(りゃくはいし)は神前で唱える祝詞です。大祓詞や龍神祝詞などは唱えるのに時間がかかります。時間がない時は略拝詞を唱えましょう。

お参りなどはまず神様に挨拶しよう

本来、神事で奏上する祝詞にはいくつか種類があります。上記ページから拝読できます。
有名な祝詞は祓詞(はらえことば)らしい。
神事では、言葉は言霊として力を得るとしています。ちいさなこえでも祝詞をあげるといいかもしれません。

祓詞。

よく神主さんがいう
かしこみかしこみもまおす、神様に「恐れ多くも謹んで申し上げました」という意味になり、五穀豊穣や健康を願う際には厳格な神様に丁寧にお願いしています。
なのでむやみにお金持ちになりたい、かわいい子と付き合いたい、モテたい、はやく結婚したいと自分のお願いばかりが先に出てきてしまっては神様も聞いてはくれないということらしい。

お願いごとは少なく丁寧に。

参拝は丁寧にしましょう。
神様はちゃんと祀られているので
そこにいます。
神域は至るところにあります。
ポピュラーなところで言うと山だったりします。
禁足地や季節的に入山が禁止されているエリアもあります。
そのぐらい厳格な存在として扱われています。

またパワースポットで有名な神社にばかり行くのではなく、地元の氏神様も大事にしましょう。初詣だけ、困ったときだけ神頼みにいくのではなく日頃から神様に挨拶しにいくのがいいかもしれません。

お願いをして気付いたこと。

目に見えるものが全てではない。
神社は心を開く場所
なにかを気づかせてくれる場所。
畏怖もあるが、温かみもある。

大高山神社境内

人には天命というものがある。それがわかる。

神前に立ってお祈りすると必ず思うことがある。
人には天命が備わってると感じる。言い換えると運命、宿命、道、因縁みたいなもの。
人が生まれてから死ぬまでに何かしらの役割を担っているという考え方。そして後世に繋がっている糸のようなもの。
人は成長しながら悩みながら苦しみながら自分だけの役割を成し遂げて死んでいく。ただ寿命を全うすることだったり、障害を乗り越えることだったり、誰かを愛することだったり、多くの人を助けることだったり人によって役割は違うと思う。それは世の中をよりよくするための仕事みたいなもの。神様はその役割を生まれながらに付与してくれている。
個人的には人を喜ばせることが自分の天命じゃないかと思っている。たとえ自分が辛くても人を喜ばせて笑顔にするのが好きだから。たまに間違えたりするけど。
そして、神前で手を合わせたとき。最初は欲望が溢れ出して宝くじが当たりますように、良縁に恵まれますように。と自分の願望を伝えてしまう。もちろん神様に感謝もするんだけど、下心を見透かされているような気がする。
お祈りをした後、当たった宝くじのお金を自分のために全て使う姿や自分から努力もせずに良縁を口にしている自分の姿を想像すると自分の勝手さに恥ずかしさが込み上げる。

いまだ何者にもなれず、なにかを成し遂げてもいないのに、自分の天命を見定めてすらいない未熟な自分に神様のお願いを聞けるのか?と考えてしまう。

「お前にはもっとやらなければならない大切なことがあるだろう。」と諭されている気分になる。

別に誰に言われているわけでもないのだけど…
迷いは自分で開放していかなければいけないけど、それを整理するにはいい場所だなぁと思いました。

鳥居の真ん中は歩かず、
入るとき出るときは一礼しましょう。

あらためて自分がよく行く場所の風土や歴史を調べてみると印象が大きく変わりました。
神様に対する意識が改められた感じがしました。

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