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#1 序章「蓑(みの)」(1)

初しぐれ 猿も小蓑こみのを ほしけなり / 芭蕉
( 猿簔集 巻之一・冬 )

評釈ひようしゃく 猿蓑さるみの」幸田露伴・著
の冒頭にあるのがこの俳句である。
この句から、句集に「猿蓑」という名前が付けられた。
冒頭の句の内容を訳したものはない。

初しぐれ 猿も小蓑を ほしけ也 〈 露伴の評釈 〉
和歌集は、春が巻頭に出てくるが、巻1に冬の句を出し面白い。集のはじめに初時雨をサッと降らせ、俳諧の新しい味である。(文末に詳細を掲載)*1

引用:幸田露伴「評釈 猿蓑」

〈 解釈 〉旅路の寂しい山道にて この冬初めての時雨で蓑を身につけたが ふと見ると木の上の猿も寒さに震えている。

引用:芭蕉会議

(私が職業を辞して退職後入会した)健康塾の、かな書道部会「フジタ会」では、作品づくりで、「評釈 猿蓑」の俳句を散らし書きで取り組むことになっていた。
しかし、コロナで、会合が休止になった。
私は、書の仲間からのサポートが得られなくなり、1人で書き進める羽目になった。

ところが、書き始めてすぐに、墨書の手が止まった。
冒頭の句の中に出てくる「みの」で寄り道することになった。
今だかつて、「蓑」を手にした事もかぶったこともないのに、なにやらなつかしく、早くも筆をいてしまったのである。
私が「蓑」を懐かしく思うわけは2つある。


蓑が懐かしいわけ

それは、太田道灌どうかん逸話いつわ山吹やまぶきの歌にある。

太田道灌どうかん逸話いつわ


逸話とは、若き日の太田道灌が、狩りに出掛でかけたところ、にわか雨に合い、蓑を借りるべくある家に入った。その家の若い女姓が、何も言わずに山吹の花の一枝を差し出した。
道灌は怒って帰宅した。
後に、山吹の一枝には、
七重八重ななへやへ 花は咲けども山吹の
蓑ひとつだに なきぞ悲しき  
*2
(山吹の実がないように、蓑さえも家にない悲しい)の意が託されていたのだと教えられ、道灌は自分の無学を恥じた、という有名な話である。*3

*3   道灌の逸話は、「常山紀談(じょうざんきだん)」より。
*2   歌「後拾遺和歌集(ごしゅういわかしゅう)巻十九~雑五」より
作者:中務卿兼明親王(なかつかさきょうかねあきらしんのう)

また、「蓑」といって思い浮かぶものには、次のような川柳もある。
蓑ひとつあるとやさしい 名はたたず (引用:川柳江戸名所図会
(あの時、蓑を差し出せたならそれは親切だけど、しかしここまで有名にならなかっただろう)
このように「常山紀談」の山吹の歌を元にした川柳もあるぐらいだから、江戸時代、山吹の歌は広く世に知られたものであったようだ。

by Tajima Shizuka

懐かしい通学路、堀切

しかし、今日この頃、この山吹のエピソードを知らない人がだんだんと多くなったのではないでしょうか。
時々、会話の中で山吹の歌を例えに使ったりすると、若い方など(それなに?)と不思議そうな顔をされてしまうことがある。
年の離れた若い人に、この道灌の山吹のエピソードを話す時はいつも、初めから知らない事を前提に丁寧に話すようにしている。
せっかくの美しい句なので若い世代にももっと知ってほしい気持ちを込めて。

この山吹の歌の中に、
山吹の 蓑ひとつだに なきぞ悲しき
(山吹の実がならぬように、家に蓑がないのは悲しい)
とあるが、
実際、山吹の中には、実をつけるものもある。
私が幼い時にみつけた山吹は、熟れて美味しい実をつけていた。

1944年、戦禍を避けて祖父母の地に疎開した。
長崎県西彼杵郡にしそのぎぐん八重本村やえほんむらから、さらに離れた所にある集落が父祖の地で、椿の里と呼ばれていた。
海に近い崖地の上に祖父母の家があった。
国民学校に上がる前の6歳から小学校3年の夏休みまでを椿の里で暮らした。

八重本村やえほんむらにある小学校から、道を少し上がると堀切ほりきり*4  になる。下校の時は、ひとりで堀切の坂道をゆるゆる
と登った。
椿の里には、近所に同級生が2人いたが、何故なぜか一緒に下校した記憶がない。
その堀切が下校時の束の間の休憩場所であった。
右側の壁はコケに覆われて、見上げる程高い。
背丈の3倍の高さはあっただろうか。
その上部から、いつも水が滴り落ちていた。
近くに生えている木の枝から葉っぱをちぎり、数枚を重ねて器にし、滴る清水を溜めて啜った。

*4  堀切ほりきり  尾根を断ち切るようにして設ける堀

引用:つわものどもが夢の跡


また、祖父母の家にいたる細道にはヘビイチゴが生えていた。
ヘビイチゴは赤い実がなった。母からは、毒にはならないが美味おいしいものではない、と教わっていた。
名前がまがまがしい。空腹であったが眺めるだけにした。

その近くに「ナバ」というキノコも時々出現した。これは食べられないと教えられていた。ある時、それを足で踏みつけてみた。すると灰色の煙のようなものが吹き出しギョッとして飛び上がった。
(今思うと、木の実などの落下で胞子を飛散する戦略のキノコだったのだろうが子供としては恐ろしくて鼻と口を手で覆って走り帰った)

堀切の左側の壁からは、ひと群の山吹の木が枝を伸ばしていた。
5月頃に黄色い花を咲かせ、夏が近くなると、葉の陰に透明な黄色いツブツブの実がなった。
熟れた3、4個を取って口に入れた。
むと甘酸っぱい汁が口中にあふれ出た。
それは、空腹のからだの隅々すみずみまでしみ渡った。
元気が出て、飛び跳ねるようにして椿の里までの道を走った。

こうして、道端にある食べられるもの食べられないものを覚えていった。
椿の里は、薩摩さつま芋がたっぷりあり、飢えた事はなかったが同じ物ばかりで子供心に何か物足りない日々が続いた。屋敷の周りにある木々のり物や、西の浜のいそものを毎日探して歩いた。それは、楽しい食べ物探しの日々で……、その話は、別の章で語ることにする。


これが、書き始めてすぐに、墨書の手が止まった理由である。
冒頭の句の中に出てくる「みの」から連想し、寄り道するに至った。
今だかつて、「蓑」を手にした事もかぶったこともないのに、なにやらなつかしく、早くも筆をいてしまったのは、この懐かしい思い出のせいである。
私の下校のキラキラした思い出が「蓑」を懐かしく思うわけの1つ目ということである。

次回、私が蓑を懐かしく思うわけ2 へと続きます。






◯ 田嶋のちょっと言わせて コラム〜閑話休題(1)
山吹に実はなるのか

さて、その山吹の実であるが、どうも幼い時の私の勝手な思い込みであるようだ。
ちょうじて、図鑑を見ると、山吹の実として紹介されているものが、私が口にした実と全く違う物であったのだ。
図鑑の写真で見る山吹の実は、暗い色で堅そうである。食べられるとは記されていない。私が幼い時に食べた黄色の実は、木苺の実とソックリである。
誰が私に、「山吹の実」と教えてくれたのだろうか。
覚えていない。
小学生の私が、太田道灌の蓑のエピソードなど知るよしもないが、
高校か何処どこかで、このしゃれた道灌の逸話を学ぶ機会があり、疎開先での体験の山吹の実の歌と重なったのかもしれない。
「蓑ひとつだに なきぞ悲しき」の歌を知っていて、山吹には実がならないと思っている人が多いでしょう。
そう思っている人に向かって、私は、実体験から「山吹には実がなる」と、堂々と主張して惑わせてきた。
その度に「えー!」と驚いて、「山吹には実がならないよ」と言い返す人が多い。
実際ちゃんと調べると、歌に出てる八重のタイプの山吹は実がなく
一重の山吹には実がつくようです。
結論、山吹には実がつく、これが迷い道のゴールであった。

引用:Yahoo知恵袋

◯ 田嶋のちょっと言わせてコラム〜閑話休題(2)
道灌って知ってる?
私の周囲に、「常山紀談」の山吹の歌を知る人は少なくなってきているように感じて実に寂しい。
自分が小さい時の周囲は、親世代はみな知っていた。時間が経って自分より年下が多くなった現在は、知っている人が少ないように感じる。
先日、山吹をみつけ、自分のお気に入りの歌を披露した。こっちがはりきったわりに拍子抜けの「・・・」といった寂しいリアクションだったので不思議に思い尋ねると、
「ごめんなさい、道灌とか、歴史はにがてで」との返答であった。
そんなこんなで、道灌の話、ちょっとおしゃべりを楽しみたくてnoteに今日は書いてみた。みなさんどうでしょう、今回の寄り道、楽しんでもらえたでしょうか。

◯ 田嶋のちょっと言わせてコラム 〜閑話休題(4)
道灌で迷い道
猿蓑の冒頭の一句から「蓑」→太田道灌の逸話→「常山紀談」の山吹の歌
と脱線、迷い道・寄り道した。
その際、道灌も再勉強したのでその時面白かった事を少し紹介します。


句集「猿蓑」の中には、「道灌」という言葉が出てくる珍しい句がありました。
道灌や 花は其代(そのよ)を 嵐哉(あらしかな)*5  /
嵐蘭(らんらん)・作 (猿簔集 巻四・春より)
『道灌や』は、屋敷跡のこと。句の作者、嵐蘭らんらんは、戦乱の世を「嵐」とあらわし、江戸の太平の世で跡に咲く花をしみじみ眺めたようだ。
「太田道灌」を電子辞書でさらに深掘り調べてみると、
『太田道灌(1432~1486) 室町中期の武将・歌人。名は持資もちすけ、のち資長すけなが。道灌は法名。扇谷おうぎがやつ上杉家の重臣。1457年、江戸城を築く。山内上杉家の策謀により、主君に暗殺された。軍法にすぐれ、和漢の学を修め、和歌に秀でた 』
と、このように出てくる、辞書の文言と、『花は其代を嵐哉』の句を合わせて考えてみる。太田道灌は、江戸城を築いた人という名声と、「蓑ひとつだに なきぞ悲しき」の歌のエピソードと共に、長く後世に語り伝えられたが、実際にはと、実に不幸な身の上だったように思える。
そして昨今は、私の身近な人からその名も消えてしまうようでなんとも寂しい今日この頃です。

引用:大辞林 第三版

*5   道灌や 花は其代を 嵐哉 〈 露伴の評釈 〉
「道灌山 *6 は、関の小次郎長耀入道が入道して道灌といった人の住まいの跡である。太田持資入道の道灌の趾ではないが、世の人がみな道灌の趾と思い、作者もその言い伝えにより、道灌や、と五文字を置いたのである。
太田道灌は戦乱の時代の人である。
花はその代を嵐と思ったであろう。太平の世になって誰も彼も花見を楽しむことが出来る。頭の上の紅の霞、よい香り漂う霧よ、道灌はとうの昔になくなってしまい、こうしてただ花だけが咲いている。
過ぎし日の嵐と今の長閑さをしみじみ思っている」
*6   道灌山は、東京都荒川区西日暮里にある台地。太田道灌の館があったと言われている。

引用:幸田露伴・著「評釈 猿蓑」

*1   初しぐれ 猿も小蓑を ほしけ也 〈 露伴の評釈 〉
以下、かいつまんで述べる。
『集の巻1に冬の句を出しているのが面白い。代々の和歌選集には、春がまず巻頭に出てくる。それをこれまでの例にこだわらず、集のはじめに、初時雨をサッと降らせている。俳諧の新しい味である。』
芭蕉の句の内容を訳したものはない。
さらに、続けて、
ほしけ也  について、これまで、藤原定家ふじわらのさだいえ*7 の歌に基づくとされていたが、この句は「古歌とり」*8  の句ではない。引いた歌は、西行上人さいぎょうしょうにん*9  の歌である』
と述べている。
旧説で引用されたとされた、 定家の歌とは、
篠ためて雀弓張る をのわらは 
ひたひ烏帽子の ほしげなり

と評釈の文中に紹介されている。
露伴は、西行の歌を引用したとしているが、評釈中に、その歌を紹介してない。調べてみると、次の通りで、よく似ている。旧説の定家の歌と余り違わない様である。
しのためて すすめ ゆみはる をのはらは
ひたひ烏帽子の ほしけなるかな

(夫木抄 巻州二:雑14)
冒頭から、露伴の丁寧な評釈が展開していく。
(引用:幸田露伴「評釈 猿蓑」)

*7   藤原定家(ふじわらのさだいえ/ていか)
平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公家・歌人。
藤原俊成の2男。「小倉百人一首」の選者で、権中納言定家を称する。
(引用:Wikipedia)

*8   古歌取り
昔の人がよんだ歌を、語句、発想、などを取り入れて、新しく作歌する方法。本歌取り。(引用:大辞林 第三版)

*9   西行上人
元永元年(1118年)―  文治6年2月16日(1190年3月23日)。
平安末期から鎌倉時代初期にかけての日本の武士、僧侶であり歌人。
西行法師と呼ばれ、俗名は|佐藤義清(さとうのりきよ)。
西行は号であり、僧名は円位。(引用:大辞林 第三版)

引用:幸田露伴「評釈 猿蓑」



(エッセイ)「猿蓑 の 寄り道、迷い道」 #1 序章「蓑」(1) 
をお読みいただきましてありがとうございました。
2024年2月16日#0  連載開始
著:田嶋 静  Tajima Shizuka
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