『エロカフェ』(超短編小説)
閉店はいつだって何の前触れもなく起こる。
会社とアパートのあいだにある、私の第三の居場所「デテールカフェ◎◎駅前店」がなくなっていた。
開店もいつだって何の前触れもなく起こる。
そのテナントには、さっそく新しいカフェがオープンしていた。
「エロカフェ」
一瞬、自分の目を疑った。間違いなく看板にはそう書いてある。電柱の影からしばらく様子をうかがう。店は入口の階段を下りた地下1階にあるため、店内の様子はうかがい知れない。
この街に新しいウェーブが来ているのか。私の第三の居場所になりうるカフェなのか。ここは確かめないわけにはいかない。私の中で使命感のようなものが沸々と湧き上がってくるのを感じた。鼓動は次第に大きくなっていく。想像は際限なく膨らんでいく。
不動産屋の物件情報が貼られた壁に向かって小さく深呼吸する。もう腹は決まっている。とはいえ世間は狭い。誰が見ているかわからないのだ。そこだけは気をつけなければならない。
私はカフェに向かって歩き出した。いつもの自然な表情を意識しながら、歩幅をやや広めにして。くれぐれも目を泳がせてはいけない。
それにしてもこの背徳感は何だ。いつも上り下りしている階段なのになぜこんなに胸が高鳴るのだろう。故郷のお寺にある108段の階段より長い気がした。
ドアの前まで来た。ガラス越しに店内の様子が見える。お客も何人かいて、一見した限りではありふれたカフェのように見える。でもまだ油断は禁物だ。あんな店名をつけておいて、普通のカフェなんてことがあるわけがない。いつしか、私の不安は期待に変わっていた。
私は汗ばんだ手でドアを開けた。
「いらっしゃいませー」
女性店員の声が響く。その声はどこか人妻の憂いのようなものを含んでいたような気がした。気恥ずかしさのあまり店員の顔が見れないまま、レジ前にいく。
「お客様ご注文は?」
「ア、ア、アメリカン・・・で」
「240円になります」
「あれ、財布が・・・」
鞄の中をくまなく探すが、どこにもない。どうやら会社に忘れてきたようだ。いろいろな状況が重なって私は頭がパニックになった。
「お財布をお忘れになったのでしょうか。お客様」
「・・はい」
「本日はオープン記念サービスで、アイスコーヒーなら無料でご用意できますが」
「あ、ホントですか」
そう言った瞬間、反動で私は顔を上げた。
カウンターレジをはさんだ目の前には、若かりし頃の松坂慶子のような色気と気品を帯びた女性が立っていた。吸い込むような視線で私を見つめている。胸元の名札には「工口」と書いてあった。
「エッ、エ、エロ・・・」
気が動転していた私は、あろうことか、女性の目の前で思わずその言葉を口走ってしまった。
「あっ、これ、“こうぐち”と読むんです。私の苗字なんですけど珍しいみたいでよく間違われるんですよー。あっ、私このお店のオーナーなんですよ」
そう言って女優のような微笑みを浮かべた。私は気持ち悪い声で「へへッ」と言った。
「アイスコーヒーお待たせしました。ごゆっくりどうぞ」
私はハンカチで額の汗をふきながら、心の中でもう一度「へへッ」と言った。夏はまだはじまったばかりだ。
(了)
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