見出し画像

宮城にいって、震災のことについて感じたことをつたない言葉でまとめる。(1,457文字)


2011年3月11日14時46分
当時私は滋賀。
職場で大きな揺れを感じた後、震源地のただならぬ様子を知る。
ローカルラジオ局が支援物資を募っていると知り、お水とお米の買い、
ダンボールとともに回収場所へ。
「できることがないか」「何かしたい」
道はそんな人達で渋滞だった。 

大震災を機に、「家族が欲しい」と願い、翌年息子誕生。
あの日からずっと、「行きたい、この目で見て、感じたい」と願っていた東北・宮城に息子とようやく訪れた。



2011年から12年。
12年という月日は、
まだおなかにもいなかった息子がPCをつかい、
時間通りに行動をし、地図や路線図を読みこなす。
仙台の街中は、
「12年でよくここまでの復興を、」という一見なんの痕跡もない様子。
けれど、真新しい建物や修繕箇所、ビルの柱などにある海抜表示、
防災点検や避難訓練もここでは重みが違う。

真冬並みに寒い3月の風と対極的な、人の温かさ。
大げさじゃなく、バイアスなしに、
出会う人出会う人みな優しい。

控えめでつつましく、もの静か。
私も含め、ネオな日本人が多いなかで、古き良き日本人イメージ。
厳しい気候や、都から離れていた歴史がこういった性格を育んできたのか。

略奪や諍いがなく、きちんと並び、被災者が被災者を助ける。
海外の人が驚いたという、震災時の人々の様子。
これが大阪や、東京なら・・・
スーパーの試食用のお団子は
大きく切り分けられているものの、だれも手を付けている様子もない。



仙台から電車で一時間、石巻へ。

寒いからか、道に歩く人もいない。
津波被害をもろに受けた沿岸部。
一帯に広がる黒っぽい無数の墓石や慰霊碑、海沿いの復興住宅。
ここでしか感じられない、空気感。


震災遺構の小学校へ。
ふとしたことで涙がこみ上げる。

展示室でみた制作映像が心に残った。

当時小学生の子のお母さん。
避難所で、ほかの方の避難を手助けしていた。
「お母さん、早く一緒に逃げよう!」
迷った末、わが子と一緒に避難。
のちに、
「途中で人助けを投げ出した人がいる」と噂がたった。


今も思い出しては苦しい思いが蘇るけれど、
「お母さんは逃げてよかった」と子供に励まされているとのこと。
他人事とは思えない葛藤。

数限りない後悔や苦しみが、消えずに人の心の中にある。

温かい言葉も、時に鋭い刃となって人を傷つける。







海外から賞賛された人々の振る舞いも、
人とのつながりがあるからこそ。
近所付き合いや、連帯感も、日頃からの関係あってこそ。
命に係わる情報、手助けも
つながりがあるから。
田舎のそれは、都会では考えられないほど濃厚。

繋がりがある苦しみも、煩わしさもあり、
だれも知らない、繋がりがない気楽さもある。


震災の地にいき、自分にできることを考え続けていた。
・自分のなかで風化させないこと。
・東日本大震災だけでなく、
あらゆる災害や戦争、事件も含め他人事とせず、
考えること。

災害時にはきっと、日々の習慣がでる。
だから、

・スピード感のある判断、
・広く見渡せるゆとり、視野
・経験や知識
・自分で責任をもつこと
・人の決めたことを尊重すること
・人の声を聞きすぎない
・人を助けるためにも自分の身をまず守る
・自分の大切な人、余裕があれば幅広く人を助けること
・無理ない程度に日頃から人とつながっておくこと




美味しいごはんと優しい人たち。
多くの中国人にとっても、魯迅がいた宮城は憧れの地の一つだと聞いた。
家族でまた定期的に訪れたい。

この世での限りある時間、やりたいことをやって
楽しい思い出作り。平和と安心な世界を願いながら。


生きている限りより善く生きたいし、成長したい。



いただいたご厚意は、今後の執筆の原動力にさせていただきます。 これからも楽しんでいただける記事を執筆できるよう 精進していきます。 今後とも応援宜しくお願い申し上げます。