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捨てたい性格、「自意識過剰」が消えていく喜び

私の性格を一言でいうとしたら「自意識過剰」です。
私の人生に悪影響を及ぼし、新たなことに挑戦する気持ちを妨げていたのが正にこの自意識過剰という性質でした。

信仰を持って罪を悔い改めるようになり、まだ他にも罪があるはずと思って人生を振り返ったときに、自分がいかに人目を気にして生きてきたか、あらためて思い出しました。

貧しい家庭環境に対する劣等感や学生時代の様々な苦い経験をへて、私は徐々に自己肯定感の低い自意識過剰な人間になってしまったのだと思います。

見た目も中身も完璧であろうとすればするほど、自分の行動の一つ一つが相手にどう映ったのか気になってしまい、いつも最後は身動きが取れなくなり自分の殻に閉じこもっていました。

弱い自分を見せたくない、失敗したくない、人に良く思われたい、褒められたいという気持ちが常にあるので、弱い自分を見せてしまったり、失敗したり、嫌われたりしたときの気分の落ち込みようはひどいものでした。

自分は欠点だらけだという劣等感に苛まれ、しかし素直に自分の欠点を認めることができず、プライドの高い高慢な人間、それが以前の私でした。
思いどおりにいかない不満が過食を引き起こすことも度々でした。

RAPT理論をきっかけに信仰を持ち始め、人に好かれたい、よく思われたいという自己承認欲求も聖書では罪にあたるということを知りました。

また、他人の評価で一喜一憂することがあったとしても、それは運命を左右するものではないことも知りました。

RAPT有料記事491(2020年8月22日)自分の評価も他人の評価も全く何の意味もない。ただ主が評価した通りに、あなたの運命が決まるからだ。

この世には、自分を高く評価したり、他人から高く評価されたりして悦に入り、他人を見下して生きている人たちが大勢います。

逆に、自分を低く評価したり、他人から低く評価されたりして自信を失い、自己卑下をして生きている人たちも大勢います。

しかし、いくら自分や他人が自分のことを高く評価したとしても、自分の運命が好転するわけではありませんし、いくら自分や他人が自分のことを低く評価したとしても、自分の運命が悪化するわけでもありません。

自分の評価や他人の評価では、自分の運命は何も変わりません。

気分が良くなったり悪くなったりすることはあっても、運命には何の変わりもありません。

自分の運命が良くなるのも悪くなるのも、全ては神様がその人のことをどう評価するかにかかっています。

神様がその人のことを高く評価すれば、その人の運命は必ず好転しますし、神様がその人のことを低く評価すれば、その人の運命は必ず悪化します。


それからは無理をしてまで人に合わせること、職場での偽善的な気遣い、本心と異なる行動全般などをやめると決心しました。

すると、特に無理することもなく自然に行動が変わっていき、周りからどう思われているのかということが気にならなくなり、ストレスの多かった毎日が嘘のように穏やかに過ごせるようになりました。

大人になると自分を変えるのは難しいものですが、どうして信仰を持つとこのようにスムーズに自分を変えることができるのでしょうか。

それは神様から本当の愛を受けるからです。
劣等感や高慢といった性質は聖書において罪とされるものですが、これらが人間に生じるのは神様から愛を受けられないからだったのです。

朝の祈り会 2020年7月23日(木)

真の愛を受けていない人は、寂しさと劣等感に苛まれ、自分の欠点を素直に認めることもできない。しかし、真の愛を受けて生きている人は、絶えず自信を持ち、心に余裕があるので、素直に自分の欠点を認めて治そうとする。(主の愛を受けていない人は、全てのものを自力で手に入れないといけないと考えるので、本能と欲望の赴くままに生きるしかないが、主の愛を受けて生きる人は、主が必要なものを全て与えてくださると信頼しているので、本能と欲望の赴くままに生きる必要がない。)

RAPTブログ 朝の祈り会

RAPT有料記事489(2020年8月10日)主の愛を受けて生きる人は、主が必要なものを全て与えてくださると信頼しているので、本能と欲望の赴くままに生きる必要がない。

この世の人々は、この世を生きていく上で必要な全てのものを自分の力で手に入れなければならないと思って生きていますし、実際にそれはその通りです。

そのため、ある意味、人々は欲望や本能を剥き出しにして生きていかなければならないわけですが、そのような生き方をしているが故に、周りの人々から煙たがられたり、忌み嫌われたりすることが多々あります。

ところが、私たち主を愛する義人は、この世を生きていく上で必要なもの全てを主が与えてくださると分かっていますので、全てのものを自力で手に入れようとする必要がありません。

私たちはただ主を愛し、主の御心を成していれば、主が私たちに必要な全てのものを与えて下さるし、豊かに祝福を与えてくださるので、この世の人々のように欲望や本能の赴くままに生きる必要がありませんし、むしろ欲望や本能を汚れたものと見なしてどんどん捨てようとさえしています。

このように、主を知り、主の愛を知って生きることで、私たち人間の人生は180度生まれ変わります。

欲望や本能の赴くままに生きても、欲望や本能を満たすことはできずませんし、むしろ自分のその心の汚らわしさ故に自己嫌悪に陥ることすらあります。

欲望や本能の赴くままに生きることは、一見すると自由なように見えますが、実際のところは大きな心の重荷です。

しかし、私たち主を信じる義人たちは、それら全ての重荷を捨て去って生きることができるので、本当に人生が楽です。

主が聖書の中で「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。私の軛は負いやすく、私の荷は軽いからである」と仰って下さっている通りです。

神様の愛を受けると信仰者は誰もが最初に孤独感から解放されます。
異性の愛、親子愛など人間の愛はいつ無くなるかもしれない気まぐれな愛ですが、神様の愛は次元の高い確固たる絶対的な永遠の愛です。

孤独感がなくなると自分に自信を持てるようになるので、素直に自分の欠点を認めそれを治そうとします。このように欠点をなくしていくと、益々自分に自信がついて、堂々と生きることができるのです。

神様はこの地上、人間、あらゆる万物を創造された方ですが、全てが愛を持って成されました。神様は私たち人類と恋人になりたいと切に望んでおられます。

そして、今まさにラプトさんを通じて人類に御言葉を伝え、導き育ててくださっているのです。

RAPT有料記事114(2016年10月24日)神様の世界は愛で始まり、愛で終わる。

もし、自意識過剰のまま相変わらずの日々を続けていたら、私は人生を棒に振っていたと思います。欠点だらけの自分には何もできないと卑下し新たなことに挑戦することもせず、人間関係を苦痛に感じ、家にこもって安定した老後を待ちわびる空しい生き方しかできなかったでしょう。

今、日本は賃金が上がらない上に物価が高騰するなど、見る見るうちにまともに生活するのも難しい程の状況になりました。

しかし、そのような中にあっても、私たち信仰者は神様に祈り求めれば必ず神様が最善の方法で幸せにしてくださるという確信を持って生きられるので、心配や不安のない日々を過ごすことができます。

RAPT有料記事755(2023年7月1日)人のために働いて、人から報酬をもらっても、生活が保障されない時代になった。だから、これからは生活も幸福も保証してくださる神様のために働いて、神様から報酬をもらう生活をしなさい。

今や日本人に対する裁きが進み、人々はどんなに真面目に働いても、きちんと生活が保障されない時代になりました。

これまで日本人は、真面目に働いていれば、きちんと給料や年金がもらえて、一生の生活が保障されるという幻想を抱いて生きてきました。

悪魔を拝むイルミナティがこの世を支配している以上、彼らが私たち人間をまともに一生、面倒を見てくれるはずがありません。

しかし、私たちが神様の願い通りに神様の仕事を成していくなら、神様は必ず私たちに必要な「報酬」を与えてくださり、ときに「ボーナス」を与えてくださり、一生の生活を保障してくださることはもちろん、一生の幸福までも保証してくださいます。

神様はその「報酬」をどのように使えば、私たちが最も幸せに生きられるのか、その方法を精密に教えて下さり、私たちが実際に幸福に生きられるようになるまで導いてくださるからです。

ぜひ御言葉のダイジェスト版だけでも触れてみてください。
あなたの心に響く言葉がきっとあると思います。
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