親子晩酌。

  
 「…ただいま」
夜遅くに大学から帰ってきた息子を、父親が「おう、おかえり」とビールをグラスに注ぎながら迎えた。息子は「…うん」と力なく答えた。その息子の様子に「なんだぁ、元気ねーな」と半分酔っ払って言った。息子は「…うん」と、また力なく言うと父親の対面に座った。息子のその様子を見て、「なんだ?何かあったのか?」と聞いた。
「…『優しくないね』って言われちゃってさ」
息子が、ぽつり、と言った。父親は「誰に?」と聞いたが、息子は答えなかった。父親は「…まぁ、いいけどよ」とグラスを手に持ち、ビールを飲んだ。
「親父」
「んあ?」
「優しさって何なのかな?」
父親は「そんな難しい事、酔っ払いに聞くんじゃねぇよ」と笑った。息子も「それもそうだね」と笑ったが、乾いた笑いだった。そんな息子を見て少し酔いの醒めた父親は、息をひとつ小さく吐いて、「優しさねぇ~」と呟いてからグラスの中のビールを一気に飲み干した。それから息子に、「おい、グラス持ってこい」と言った。
「…ん?」
「グラスだ、早く持って来い」
「…あぁ」
と、息子は台所まで行ってグラスを持って戻ってくると、「ありがとう」と父親にグラスを向けた。しかし父親は「ん」と喉から音を漏らすと、ビールのビンを手に持ち、自分のグラスに傾けた。
「え、くんないの!?」
父親の予想外の行動に、息子は思わず大きな声を出した。そのせいか、少し元気が出ていた。そして「なんだよ、もう」と言いながら笑う息子に、「まぁ、待てや」と父親も笑った。
そして、ビールをどんどん注いでいき、グラスの中は溢れるスレスレまでビールでいっぱいになった。ビンの中に余ったビールは、ほんのわずかだった。
「ほれ」
そう言うと、そのわずかなビールを息子のグラスに注いだ。息子のグラスの中は、ほんのちょっとのビールしか入らなかった。「いや、少ないよ」と笑う息子に、父親がこう言った。

「優しさっていうのは、こういう事だ」

そう言われ、息子は「そんなわけねーだろ!」と笑いながら大きくリアクションした。その反応に、父親は小さく笑ってから、再びこう言った。

「いや、これでいいんだよ、優しさなんてのは」

自分の目をまっすぐに見て真剣にそう言う父親の態度に、息子は「え?」と言いながら、姿勢を正した。そして、「どういうこと?」と聞いた。
父親は、ビールがなみなみと注がれたグラスに手を添えて、「このグラスが、人の心だとしよう」と言った。息子は、「うん」と頷いた。
「このグラスは、幸せになったり、嬉しい事があったりすると、満たされていくよな?」
「うん、そうだね」
「で、いま、いっぱいに満たされてる状態だな?」
「うん」
「こうやって、いっぱいに満たされた時、少し、余る。この余った分を、人に分けてあげる。優しさってのは、そういう事だ」
息子は、自分のグラスに入った、わずかなビールを見つめた。
「…そんなんでいいのかな?」
「いやいや、それが出来りゃあ、上出来だ。大したもんだよ」
「…でも、ちょっと少なすぎない?」
そう問いかける息子に、「おめー、俺がどんだけビール好きだと思ってんだよ」と笑った。息子は一度、父親の目を見た後「…そうか」と、またグラスを見つめた。
「昔、オヤジが交通事故にあって、血だらけになってもビール飲んでたもんね」
「余計な事思い出すんじゃねぇよ」
「それで、『お前は、何やってんだ!』ってかーちゃんに怒られながらもビール飲んでたもんね」
「余計な事思い出すんじゃねぇよ」
二人が笑い、少し空気が砕けた。その砕けた空気を、「…まぁ、それは余計なことだけどよ、」と父親が整えた。
「人はみんな幸せになりたくて生きてるんだ。たくさん幸せが欲しいんだ。それが余ったって、本当は独り占めしたっていいんだ。でも、それを分けてあげるんだ。それ以上に『優しい』なんてことがあるか?」
その一言に「…そっか、そうだね」と小さな笑顔を見せた息子を見て、父親は「だろ?」と満足そうに返事をした。

「お前が、どんな状況で、どこの誰に『優しくない』なんて言われたか知らないけどよ、」
そこまで言って、父親はグラスをそーっと持ち上げて口まで運び、ぐびぐびと飲むと、「はぁ~、うまい」と吐き出し、グラスをテーブルに「どんっ!」と置いた。グラスの中のビールは、四分の一ほどしか残らなかった。
「今、お前の心はきっと、これぐらいしか満たされてないんだ。こんな状態で人に分けてあげるなんて無理だろ。だから、落ち込む事ねぇよ」
「…そうかな」
「『優しくない』なんて言われて落ち込むやつだ。お前は余裕のある時は人に優しくできるやつだよ。気にすんな」
父親のその一言に息子は安心し、「ありがとう」と頭を小さく下げた。
「逆に、お前が『こいつ優しくないな~』って思うやつがいても、『今は余裕がないんだろうな』ぐらいに思ってやれよ」
「うん、わかったよ」そう言って、父親から分けられたほんの少しのビールを飲み干し、グラスを空っぽにした。
「おう」と返事をすると父親は立ち上がり、台所に行って新しいビールを冷蔵庫から取り出して栓を開けると、戻ってきて息子の前に座った。すると、息子が「…でもね?」と話し出した。
「うん?」
「このグラスの中からでも分けてあげたいって思ったら、どうすればいいのかな?」
そのセリフに、父親は自分の息子が優しく育ってくれている事を嬉しく感じた。そして、「その時は、分けてあげればいい」と答えた。
「…いいの?」
そう問いかける息子に「悪い事なんてねぇよ」と答えてから、こう言った。
「ただ、それは、自分の責任においてな」
その言葉に、息子は「…責任?」とまた問いを投げた。父親は答えた。
「自分のグラスの中は、基本、自分で満たすんだ。自分の心の事は、自分が責任を持つんだ」
息子は、「うん…」と頷いたものの、まだ完全には理解できていないようだった。父親は「たとえば、」と栓を開けたばかりのビンを傾け、再び自分のグラスいっぱいにビールを注いだ。
「今は、この余りの分は考えなくていい」とビールのビンを少し遠ざけた。
「たとえば、こうやって、相手のために自分の心が空っぽになるまで分けてあげるとするよな?」
ビールが、父親のグラスから息子のグラスにすべて移った。
「うん」
「ここで、やっちゃいけないことがある。何かわかるか?」
「…?」
息子が、首を傾げた。父親は答えた。
「それは、『見返り』や『感謝』を求めることだ」
「『感謝』も?」
「そうだ。『こっちがこんなにやったのに』『犠牲にしたのに』『こんなに頑張ったのに』これを出しちゃ、だめなんだ」
「…なんで?」
「これを求めちゃうやつは、相手にも、相手の心からこっちに分けることを要求しちゃってるわけだ」
「…なるほど」
「つまり、こういうやつが考えてたのは、自分の幸せだ。相手の幸せじゃない。結局、自分の心を満たそうとしてるって事だ。だったら、自分で責任をもって、自分の心の中を満たせって話だろ?」
息子は「…うん、確かにね」と頷いた。
「…でも、ちょっと難しいなぁ~」
そう言って笑った息子だったが、その笑顔にふざけた様子はなく、何かに挑戦しようとしてワクワクしている子供のように見えた。
「そんな事ねぇよ。相手を本当に大事に思ってたら、むしろ簡単だ」
「そう?」
「おう、カンタンカンタン」
「このグラスを見ろ」と父親が、空っぽのグラスを指さした。
「俺やかーちゃんは、お前のためならこの中からいくらだって分けてやれる。空っぽになったって平気だ。なんでかわかるか?」
息子は、首をかしげた。
「それは、お前の心がいっぱいになったって事実だけで、俺の心も満たされるからだ」
息子は、父親の目をまっすぐに見た。だが、父親は照れくさくなったのか息子から視線をそらし、さっき遠ざけたビンを持って、自分のグラスに注いだ。二本目のビンも、空っぽになった。
「お前が俺たちに恩返しなんかしなくても、感謝なんかしてなくても、毎日笑顔で幸せに生きていてくれることが、俺やかーちゃんの願いだ。そのためなら、何度心が空っぽになろうが、どーってことないんだよ。それが、本気で相手を想うってことだ」
一切目を合わせずにそう言う父親に、息子は、「ありがとう」と頭を下げた。父親は、そのお礼を何も言わずに受け取った。
「だからな、見返りなんかなくても、感謝なんてされなくても、こっちのしたことなんて忘れられても、その人の心が満たされたって事を本気で喜べる場合にのみ、グラスの中から分けてやれ。それができねぇなら、自分の心の事は自分で大事にしろ」
「うん、わかった」
そう頷いた後、「…でもね」とまた話し出した。
「ん?」
「でも、俺はいつか、二人に恩返ししたいと思うよ」
そう話す息子の顔を見て、「いつの間にこんなに頼もしいやつになったんだろうなぁ」としみじみ思った。
「ほらな、そうやって優しくできるやつだ。安心しろ」
「うん」
「な」と父親は息子の前に置いてある、ビールでいっぱいのグラスに手をかけた。その手を、息子が「何すんだよ!」と払いのけた。
「俺のビールだろがっ!返せ!」
「なんでだよ、空っぽになったって平気なんだろ!」
「ふざけんな、ビールはやらん!」
「返せ!」「やだ!」というやり取りを繰り返している二人の耳に「おい」というドスの利いた声が聞こえてきた。そっちに目をやると、寝室で寝ていたはずの母親が仁王立ちで睨みつけていた。父と子が共に「あ、やばい」と冷や汗を垂らした。

「おい、くそオヤジ」矛先が父親であることに息子は安堵し、父親は「はい」と姿勢を正した。
「誰がビール二本開けていいっつったんだよ?」
そう言われ、「あっ、しまっ…!」と、片付け忘れたビンを慌てて隠そうとした。
「違うんだ、これは、息子のために…」
「今お前、『返せ』って言ってただろうが。お前、ウチにそんな余裕あると思ってんのか、あぁ!?」
「ごめん、ごめんって!」
息子は、怒る母親と、謝る父親の姿を見て、この二人はきっと、何度も心を空っぽにして、自分の心を満たし続けてくれたのだろうと思っていた。そして、いつか必ず感謝の気持ちを伝え、恩返しをしようと心に決めた。そのためにはまず、自分自身で自分の心を満たせるようにならなければ、と思い、立ち上がった。
「どこ行くんだ?」

「自分の分の酒、買ってくるよ」

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