「続 自己の空間的考察」
紅顔の哲学者を目指して#13
2024年5月3日(金)
昨日は、とても人に見せられるようなものではないが、僕が初めて存在について考えて書いた日の哲学日記を載せた。
今日の哲学日記はその続きである。前回のように自己について空間的に考えているが、さらに深掘りをしている。
前回と同様だが、多めに見て欲しい。
2023.12.9
だいぶ間が空いてしまったが前回の日記から本格的に哲学するということを始め、まずは"私"とは"俺"とは何かについて考えた。
このテーマは1回の日記ではとうてい書ききることのできないものであるので、何回かに分けて書いていきたい。
前回は"俺"という存在を空間的に考えた。その上で、一人称視点と三人称視点という視点の違いから考察していった。
なので、今回はさらにそれらを深掘りしていこうと思う。
まずは一人称視点から。
人間は(動物も同様かもしれないが)常に一人称視点でしかこの世界を、そしてこの世界で起こる現象を知覚できない。
例えば、この世界が自分以外何もない無の世界であるとして、一人称の視点(俺)のみでは自らの存在にすら気づくことはできないであろう。
そもそも、この何もない無の世界(太陽は存在するため真っ暗ではないとする)において、何もないため一人称の視点であっても自分の手や足、つまり背中以外の部位しか知覚することはできないであろう。
(仮に太陽の存在を無の世界から消したとしたら、一人称であろうと何も知覚しえないだろう。なので光の存在は、"俺"というものについて考える際に必要不可欠である。それについてはまた後で論じたい。)
それらの自らの身体の部位を知覚できたとしても、他に何もないため、己の存在をはっきりと感じることができない。
その無の世界に、その世界の創造者(神)になったつもりである2つのものを投じてみよう。
まず1つは鏡。もう1つは自分とは違う人間(他者)である。Bさんとしておこう。
無の世界で創造者が"俺"の前に鏡をおく。すると驚くかもしれないが、自分の全身が写り、自分という存在を知覚することができる。
そして、次に無の世界にBさんを出現させる。鏡よりもさらに驚くかもしれないが、自分と同じような存在の出現によって、より強く自分という存在を感じる(またこれは二人称といえる)。
つまり、無の世界から現実世界に話を戻すと、目の前に人の存在や机、コップ、パソコン、壁、扉といったような人間と物の存在があることによってのみ自己を知覚することができると言えるのである。
次に三人称視点である。
三人称視点とは第三者から見た自己の存在である。(つまり一人称視点が主観であったのに対し、三人称視点は客観であると言える。)そのため、自明のことであるが、第三者の視点は実際には見ることは不可能であり、想像によっておぎなうしかなく、その典型的な例は文学作品である(例外あり)。もしくは、ゲームが良い例であるがカメラを使って第三者の視点から録画するというような方法もある。
また、さきほど無の空間において、自己とは別にBさんという他者を登場させたが、自己からするとBというのは他者であるのだが、逆にBの立場(視点)から見ると自己は他者である。つまり、お互いに自己であると同時に他者であるという相互関係が生まれている。
これは三人称においてもそうで、この2者の関係にもう1人別の人間(Cさん)を加えて3者の関係にしたときに同様に相互関係が生まれてお互いがお互いに認識し合っている。
さらにそこへ1人、もう1人と人数が増えるにつれて自己はより自分という存在を強く認識するのであろうか。
それについては疑問が残る。
つまり、総括すると自己は自己のみでは存在不可能であり、自己が立っているその場においても地面があるから物理的に存在可能なのであり、さらに他者という存在がいることによって精神的にも身体的にも人間らしく存在することが可能なのである。次は"俺"という存在を精神と身体という二つの面から考えてみたい。
前回載せた哲学日記を見てもらえれば分かるが、今回の方がよく書けているのが一目瞭然だろう。この日記の中で個人的に、自分でいうのもなんだが、知識がないなりにも良く考えて書けているなと思った箇所がある。一応ここに引用する。
"また、さきほど無の空間において、自己とは別にBさんという他者を登場させたが、自己からするとBというのは他者であるのだが、逆にBの立場(視点)から見ると自己は他者である。つまり、お互いに自己であると同時に他者であるという相互関係が生まれている。"
なぜこの時、存在論などについての知識がないのにこれが書けたのか分からないが、ここだけは自分を褒めてあげたいところだ。
特にここの"お互いに自己であると同時に他者であるという相互関係が生まれている。"という部分は自己を考える上でとても重要となってくるはずだ。
また、今読んでいる最中の本で『ゼロから始めるジャック・ラカン ー 疾風怒濤精神分析入門 増補改訂版』というのがある。僕の大好きなちくま文庫というレーベルからでている。
これを読んでいる時に僕がさっき書いたようなことがまんま書いてありびっくりした。あまり詳しく話すと長くなってしまうのでため簡潔に済ませるが、「鏡像段階」という用語がありまさにそれについて僕は書いていたのだ。
鏡像というだけあり鏡が重要な役割を果たす。しかも、僕は鏡についても言及している。これは後で読み返して正直びっくりしてしまった。
まだこの本は読み終わっていないので、読み終わったら詳しく今回載せた哲学日記とも絡めて書きたい。
そして、明日の日記で哲学日記を載せるのは最後になる。なので、明日以降は普通に日記を書いていこうと思う。
じゃあなー。
おまけ
今日載せた哲学日記の後に書いた、僕の存在論を図式化したものを最後に見せておきたい。
日記の内容をそのまま図式にしたようなものだが、適当にその時は書いたものの後で見返した時に思ったよりも良くできているなと思った。
だからおまけとして載せよう。
(字が汚くて読めないかもしれないが、許して欲しい。)
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