「迷ってみようよ!」 介護施設の課題 Ⅱ-5
1.「業務日課」システムとは
「業務日課」は介護施設の時間規則を中心としたオペレーティングシステムです。この「業務日課」というシステムに介護業務のマニュアルが付け加わり、効率的で強固な介護現場の最強システムになっているのです。
このシステムは介護施設における円滑な集団生活を維持するという公共の利益に沿うものと言えるかもしれません。
このシステムに則り、忠実に業務を遂行するのが組織の規律であり、組織内の道徳といえます。ですから、多くの職員はこの「業務日課」の遂行を至上命題としていて、「業務日課」至上主義とでも言えるものになっているのです。
しかし、この「業務日課」のシステムは、介護にとって大切な入居者の個別性を考慮できるものではありません。
近内悠太(教育者、哲学研究者)さんは、システムは本来的に個別の諸事情を考慮するものではないと次のように指摘しています。
システムは、原理的、本来的に人の個別性、個別の諸事情に対応できないのです。
だからこそ、介護施設の職員たちは、入居者の個別の事情、出来事について配慮すること、考えることから解放されるためにシステムに従順となり、システムを信奉するのでしょう。システムに乗っかることは、とても楽で、魅力的なことだといえます。
近内悠太さんの次の文章中の「あなた」を「入居者」と読み替えれば、システムの非人間性が顕わになると思います。
例え、システムが本来的に没個性的で非人間的であっても、職員にとって、システムは「迷うこと」から解放してくれる魅力的なものだと言えるのでしょう。
2.なぜ「迷いたくない」のか-自由からの逃避
さて、なぜ人は迷いたくないのでしょうか?
人間であれば、自由に考えようとして、迷ったり、葛藤したりするのが普通だと思うのですが、迷いたくない、葛藤したくないというのもわかるような気がしますが・・・
(1)権威主義的性格
山口周(著作家・パブリックスピーカー・経営コンサルタント)さんはエーリッヒ・フロム[1](Erich Seligmann Fromm:ドイツの社会心理学者)の自由から逃れて権威に盲従する権威主義的性格について紹介しています。
介護施設でも同じでしょう。自由に考えることから逃れて「業務日課」至上主義という権威に盲従する「権威主義的性格」の職員が多いのかもしれません。
そして、権威主義的性格の者たちがファシズムを支持したように、このような者たちが介護施設の体制思想である「業務日課」至上主義を信奉し、入居者を見下し、後輩たちには権威として振る舞っているのかもしれません。
(2)自由の過酷さ
それにしても、人はなぜ自由から逃げ出すのでしょうか。フロムも権威主義的性格を「自由の重荷から逃れて新しい依存と従属を求めやすい性格」としていますが、やはり、自由は重荷でもあるということなのでしょう。
近内悠太さんは、自由の過酷さについて、次のように指摘しています。
本能の壊れた人間は自由な動物へと飛躍したけれど、その自由には後悔や恥といった過酷さがつきまとっているらしいのです。
なぜそうなるのか、例えば、「あのとき、私はAという行為をするべきだった(あるいはすべきでなかった)」という後悔が成立するためには、まずそもそも、Aという行為をするかしないかという自由を持っていなければなりません。自由があるからこそ後悔がついて回るのです。
自由があるからこそ後悔が生じ、現在の後悔があるからこそ遡及的に過去に自由があったのです。
自由があるということは、選択ができるということです。選択ができるということは、悩みや葛藤が生じる可能性があるということです。悩みながらも、ある選択をしたけれど後になって後悔するということはよくあることでしょう。
このように、自由には後悔という過酷な裏面があるため、人々はこの自由から逃げたくなるのではないでしょうか。
人は、後悔したくないから、規則、マニュアル、業務日課に従っていれば良いと思うようになってしまうのかもしれません。ある意味、「業務日課」至上主義に浸っている者は「悩み」「後悔」という非合理、無駄を廃して、安易な合理性を求めたいのかもしれません。ですから、彼女ら・彼らは介護現場での生産性向上の尖兵になれるのでしょう。
3.道徳と倫理
「業務日課」至上主義の根幹にあるのは「業務日課」のシステムです。そして、このシステムは介護施設での円滑な集団生活を維持するため、つまり、公共の利益に沿うものであり、組織の道徳でもあるのです。
そして、介護施設では、この組織道徳と職員の倫理の衝突が多発する可能性があるのです。なぜなら、個別の出来事に配慮するシステムというものありえないので、個々の入居者の個別性を配慮しようとすれば、守らなければならない道徳に抵触してしまうのです。
近内悠太さんは道徳と倫理について次のように整理しています。
「業務日課」システムは、職員にとって守らなければならない、遵守しなければならないものです。ようするに「~ねばならない」という道徳(ルール)なのです。
しかし、このシステムでは対応できない入居者の個別性への対応しようとすると、この道徳を守れなくなる場合もあるのです。その場合は職員は組織道徳と倫理との狭間で苦慮することになるのです。
4.倫理と責任
(1)倫理無用?
介護施設において、新入職員や経験の浅い職員は、決められたシステムとしての日課・週課や上司から言われたことをこなすだけの場合が多いと思います。指示されたことだけを行わなければならない職員には自由も無ければ倫理もありません。自分の自由な意志で行動できない者に倫理はありえないからです。
ならば、ベテランの職員はどうでしょうか。確かに自由裁量の領域もあるでしょうし、介護について、または業務全般について提案もできる立場にあるかもしれません。ですから、彼らには倫理が問われる可能性はあります。
しかし、迷いのない者たちには倫理はありません。倫理とは葛藤し、迷いながらも、ある選択をし、行為することだからです。
竹田青嗣(哲学者。早稲田大学名誉教授)さんは葛藤や迷いと倫理との関係について以下のように捉えています。
何の葛藤も迷いもなく介護という行為を遂行している人たちは、人間的な自由をも失っているのです。
彼女ら・彼らは、日課、マニュアル、習慣に振り回されている機械的人間、即自存在といえます。
(2)迷わない人は無責任
また、迷いのない介護職員は責任を果たしていないといえます。
國分功一郎(哲学者)さんによると、英語には「責任」に該当する言葉が二つあるといいます。
一つはimputability(インピュータビリティ)で、もう一つはresponsibility(レスポンシビリティ)です。
① imputabilityは帰責性と訳され。「罪や欠陥などをある人に帰属させる」ことを意味します。
② responsibilityはresponseつまり応答に由来し、応答可能性という意味です。
介護の現場で大切なのはresponsibility(応答可能性)、つまり、応答に由来する責任概念だと思います。職員には当事者(入居者)の訴え、要望、希望に応答する責任があります。
しかし、「業務日課」至上主義に侵され、「迷いのない介護」をする職員は、日々の業務を淡々と素早く繰返すのみで入居者の訴えに応答しなくなります。ですから、迷いのない介護職員は無責任なのです。
(参照:國分功一郎共著『「利他」とは何か』2021年集英社新書 p174~176)
介護施設において、日課・週課や業務マニュアルを事細かく定め徹底すればするほど職員は自由や創意工夫、考えることを奪われ、倫理を喪失していきます。
そして、このような介護施設では業務を失敗した時の責任(imputability:帰責性)は問われますが、入居者への応答としての責任(responsibility:責任・応答可能性)は全く問われなくなるのです。
もっと、迷って良いのではないでしょうか?
私は、介護施設の職員たちは、入居者一人ひとりの介護について、もっともっと迷っていいと思います。介護についての迷子になることを勧めたいくらいです。
いずれにしても、職員の倫理の喪失と無責任性は構造的問題であり、経営者、施設長の責任(imputability)だと思うのです。
[1] エーリヒ・ゼーリヒマン・フロム(Erich Seligmann Fromm 1900年~ 1980年)は、ドイツの社会心理学、精神分析、哲学の研究者。
以下のnoteも併せてご笑覧願います。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?