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「迷ってみようよ!」 介護施設の課題 Ⅱ-5


1.「業務日課」システムとは

 「業務日課」は介護施設の時間規則を中心としたオペレーティングシステムです。この「業務日課」というシステムに介護業務のマニュアルが付け加わり、効率的で強固な介護現場の最強システムになっているのです。
 このシステムは介護施設における円滑な集団生活を維持するという公共の利益に沿うものと言えるかもしれません。
 このシステムにのっとり、忠実に業務を遂行するのが組織の規律であり、組織内の道徳といえます。ですから、多くの職員はこの「業務日課」の遂行を至上命題としていて、「業務日課」至上主義とでも言えるものになっているのです。

 しかし、この「業務日課」のシステムは、介護にとって大切な入居者の個別性を考慮できるものではありません。
 近内悠太(教育者、哲学研究者)さんは、システムは本来的に個別の諸事情を考慮するものではないと次のように指摘しています。

「システム」は個別の出来事を考慮できません。
個別の出来事に配慮するシステムというものは存在しません。それは端的な形容矛盾です。そして、システムに従順な者は思考する必要がありません。なぜなら、全てはシステムが決定してくれるからです。そこでは、「決まりですので」というまさに決め台詞がきちんと用意されています。』

引用:近内悠太 2024「利他・ケア・傷の倫理学」晶文社 p82

 「システムは個に対するケアを行えません。なぜなら、人間という存在は不合理だからです。」

近内悠太 2024「利他・ケア・傷の倫理学」晶文社 p111

 システムは、原理的、本来的に人の個別性、個別の諸事情に対応できないのです。
 だからこそ、介護施設の職員たちは、入居者の個別の事情、出来事について配慮すること、考えることから解放されるためにシステムに従順となり、システムを信奉するのでしょう。システムに乗っかることは、とても楽で、魅力的なことだといえます。

 近内悠太さんの次の文章中の「あなた」を「入居者」と読み替えれば、システムの非人間性が顕わになると思います。

 「システムはあなたのパーソナリティ、来歴、思考の癖、記憶、感情、そんなものは考慮しない。」

引用:近内悠太 2024「利他・ケア・傷の倫理学」晶文社 p128

 例え、システムが本来的に没個性的で非人間的であっても、職員にとって、システムは「迷うこと」から解放してくれる魅力的なものだと言えるのでしょう。

2.なぜ「迷いたくない」のか-自由からの逃避

 さて、なぜ人は迷いたくないのでしょうか?
 人間であれば、自由に考えようとして、迷ったり、葛藤したりするのが普通だと思うのですが、迷いたくない、葛藤したくないというのもわかるような気がしますが・・・

(1)権威主義的性格

 山口周(著作家・パブリックスピーカー・経営コンサルタント)さんはエーリッヒ・フロム[1](Erich Seligmann Fromm:ドイツの社会心理学者)の自由から逃れて権威に盲従する権威主義的性格について紹介しています。

「フロムはまた、自由から逃れて権威に盲従することを選んだ一群の人々に共通する性格的特性についても言及しています。フロムはナチズムを歓迎した下層中産階級の人々が、自由から逃走しやすい性格、自由の重荷から逃れて新しい依存と従属を求めやすい性格であるとし、これを「権威主義的性格」と名付けました。フロムによれば、この性格の持ち主は権威に付き従うことを好む一方で、他方では、「自ら権威でありたいと願い、他の者を服従させたいとも願っている」。つまり、自分より上のものには媚びへつらい、下のものには威張るような人間の性格です。この権威主義的性格こそが、ファシズム支持の基盤となったものだとフロムは言います。」

引用:山口周 2018年 「武器になる哲学」株式会社KADOKAWA P89

 介護施設でも同じでしょう。自由に考えることから逃れて「業務日課」至上主義という権威に盲従する「権威主義的性格」の職員が多いのかもしれません。
 そして、権威主義的性格の者たちがファシズムを支持したように、このような者たちが介護施設の体制思想である「業務日課」至上主義を信奉し、入居者を見下し、後輩たちには権威として振る舞っているのかもしれません。

(2)自由の過酷さ

 それにしても、人はなぜ自由から逃げ出すのでしょうか。フロムも権威主義的性格を「自由の重荷から逃れて新しい依存と従属を求めやすい性格」としていますが、やはり、自由は重荷でもあるということなのでしょう。

 近内悠太さんは、自由の過酷さについて、次のように指摘しています。

『ダーウィンが正しく指摘したとおり、後悔や恥といった機能が僕らを、自然と一体となって本能のまま行動する「不自由な」動物、環境に適応進化するという形によって環境に縛り付けられた不自由な動物から、環境を自らの手で変化させることのできる自由な動物へと飛躍させたのです。
 後悔において、僕らは人間的な自由を恢復する。後悔が、あのとき私は自由だった、ということを示してくれる。そして、だからこそ、自由というのは過酷なのです。

引用:近内悠太 2024「利他・ケア・傷の倫理学」光文社 p47,48

 本能の壊れた人間は自由な動物へと飛躍したけれど、その自由には後悔や恥といった過酷さがつきまとっているらしいのです。
 なぜそうなるのか、例えば、「あのとき、私はAという行為をするべきだった(あるいはすべきでなかった)」という後悔が成立するためには、まずそもそも、Aという行為をするかしないかという自由を持っていなければなりません。自由があるからこそ後悔がついて回るのです。

『後悔とは、誰かのために利他を為すことができるようになった僕らに備わった高貴なる思いである。
 そして、この後悔という正しい生物学的・人間的機能には思わぬ副産物があります。それは副産物である点において、自然選択という盲目の設計者が意図していない「バグ」と呼べるものです。そのバグとは「自由」という概念です。』

引用:近内悠太 2024「利他・ケア・傷の倫理学」光文社 p47

 自由があるからこそ後悔が生じ、現在の後悔があるからこそ遡及的に過去に自由があったのです。
 自由があるということは、選択ができるということです。選択ができるということは、悩みや葛藤が生じる可能性があるということです。悩みながらも、ある選択をしたけれど後になって後悔するということはよくあることでしょう。
 このように、自由には後悔という過酷な裏面があるため、人々はこの自由から逃げたくなるのではないでしょうか。
 人は、後悔したくないから、規則、マニュアル、業務日課に従っていれば良いと思うようになってしまうのかもしれません。ある意味、「業務日課」至上主義に浸っている者は「悩み」「後悔」という非合理、無駄を廃して、安易な合理性を求めたいのかもしれません。ですから、彼女ら・彼らは介護現場での生産性向上の尖兵せんぺいになれるのでしょう。

3.道徳と倫理

 「業務日課」至上主義の根幹にあるのは「業務日課」のシステムです。そして、このシステムは介護施設での円滑な集団生活を維持するため、つまり、公共の利益に沿うものであり、組織の道徳でもあるのです。
 そして、介護施設では、この組織道徳と職員の倫理の衝突が多発する可能性があるのです。なぜなら、個別の出来事に配慮するシステムというものありえないので、個々の入居者の個別性を配慮しようとすれば、守らなければならない道徳に抵触してしまうのです。

 近内悠太さんは道徳と倫理について次のように整理しています。

『これまでのシステム・コード・規範によって「踏み固められて」きたものを「道徳」と呼び、これまでの前例が通用しない、いわばカッティングエッジ(最先端)な判断を「倫理」と呼ぶということです。
 道徳はいわば「地図に載っている街」ということです。先人たちが通り抜け、歩き、踏み固められた道が縦横に走っている街が道徳なのです。これに対し、その慣れ親しんだ街から離れ、誰も歩いたことのない、未知の大地を歩くこと、そして、歩こうとする意志を倫理と呼ぶのです。』

引用:近内悠太 2024「利他・ケア・傷の倫理学」晶文社 p87

 「業務日課」システムは、職員にとって守らなければならない、遵守しなければならないものです。ようするに「~ねばならない」という道徳(ルール)なのです。
 しかし、このシステムでは対応できない入居者の個別性への対応しようとすると、この道徳を守れなくなる場合もあるのです。その場合は職員は組織道徳と倫理との狭間で苦慮することになるのです。

4.倫理と責任

(1)倫理無用?

 介護施設において、新入職員や経験の浅い職員は、決められたシステムとしての日課・週課や上司から言われたことをこなすだけの場合が多いと思います。指示されたことだけを行わなければならない職員には自由も無ければ倫理もありません。自分の自由な意志で行動できない者に倫理はありえないからです。

 ならば、ベテランの職員はどうでしょうか。確かに自由裁量の領域もあるでしょうし、介護について、または業務全般について提案もできる立場にあるかもしれません。ですから、彼らには倫理が問われる可能性はあります。
 
 しかし、迷いのない者たちには倫理はありません。倫理とは葛藤し、迷いながらも、ある選択をし、行為することだからです。

 竹田青嗣(哲学者。早稲田大学名誉教授)さんは葛藤や迷いと倫理との関係について以下のように捉えています。

『・・・どんな葛藤や判断についての迷いも生じないのであれば、われわれはその行為や選択をそもそも倫理的な行為と意識することすらない。つまり、われわれに「倫理的」行為と意識される状況は、必ず何らかのかたちで自己自身の存在配慮(自己配慮)についての判断や葛藤を伴い、それがひとつの「自由」な選択であるような場合なのである。』

引用:竹田青嗣 2001「言語的思考へ」径書房 P297

 何の葛藤も迷いもなく介護という行為を遂行している人たちは、人間的な自由をも失っているのです。
 彼女ら・彼らは、日課、マニュアル、習慣に振り回されている機械的人間、即自存在といえます。

(2)迷わない人は無責任

 また、迷いのない介護職員は責任を果たしていないといえます。

 國分功一郎(哲学者)さんによると、英語には「責任」に該当する言葉が二つあるといいます。

 一つはimputability(インピュータビリティ)で、もう一つはresponsibility(レスポンシビリティ)です。

① imputabilityは帰責性と訳され。「罪や欠陥などをある人に帰属させる」ことを意味します。

② responsibilityはresponseつまり応答に由来し、応答可能性という意味です。

 介護の現場で大切なのはresponsibility(応答可能性)、つまり、応答に由来する責任概念だと思います。職員には当事者(入居者)の訴え、要望、希望に応答する責任があります。
 しかし、「業務日課」至上主義に侵され、「迷いのない介護」をする職員は、日々の業務を淡々と素早く繰返すのみで入居者の訴えに応答しなくなります。ですから、迷いのない介護職員は無責任なのです。

(参照:國分功一郎共著『「利他」とは何か』2021年集英社新書 p174~176)

 介護施設において、日課・週課や業務マニュアルを事細かく定め徹底すればするほど職員は自由や創意工夫、考えることを奪われ、倫理を喪失していきます。
 そして、このような介護施設では業務を失敗した時の責任(imputability:帰責性)は問われますが、入居者への応答としての責任(responsibility:責任・応答可能性)は全く問われなくなるのです。

 もっと、迷って良いのではないでしょうか?
 私は、介護施設の職員たちは、入居者一人ひとりの介護について、もっともっと迷っていいと思います。介護についての迷子になることを勧めたいくらいです。

 いずれにしても、職員の倫理の喪失と無責任性は構造的問題であり、経営者、施設長の責任(imputability)だと思うのです。 


[1] エーリヒ・ゼーリヒマン・フロム(Erich Seligmann Fromm 1900年~ 1980年)は、ドイツの社会心理学、精神分析、哲学の研究者。


  以下のnoteも併せてご笑覧願います。

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