釋 真之

お経を読ませてもらった感想などを、つらつらと書いてみようと思いました。原典を読むのは大…

釋 真之

お経を読ませてもらった感想などを、つらつらと書いてみようと思いました。原典を読むのは大事だし、やはりいいなぁと感じます。なかなか遅々として進みませんが……。まぁ、気ままにホクホク味わっていこうと思います。

最近の記事

法華三部経を読んで 『法華経』その10

18.如来寿量品の驚きと、今の私なりの落としどころ前回の記事の冒頭でも少し触れたが、私は如来寿量品第十六の説示を改めて拝読し、非常な衝撃を受けたのだった。少し長くなるが、原文と現代意訳でその部分をまずは見てみよう。 そのとき、仏、諸の菩薩および一切の大衆に告げたまはく、「諸の善男子、汝等まさに如来の誠諦の語を信解すべし。」また大衆に告げたまはく、「汝等まさに如来の誠諦の語を信解すべし。」またまた諸の大衆に告げたまはく、「汝等まさに如来の誠諦の語を信解すべし。」 このとき、菩

    • 法華三部経を読んで 『法華経』その9

      17.南無阿弥陀仏は法華経だった…これまで提婆達多品第十二までをホクホクと味わい、次はどうしようかと如来寿量品第十六あたりを読み直していて、その大胆な説示にいろいろと驚くことがあり、あらためて『法華経』って何なんだろう?と思い直す、というより正直なところ思い悩んだ…。 たまたま『仏教説話大系』の中に『法華経』の現代語意訳「法華物語」を見つけていた。それを拝読しながら、あらためて『法華経』全体の流れを少し時間をかけて味わううちに、私なりの領解が沸き起こってきた。 (※中村元、増

      • 法華三部経を読んで 『法華経』その8

        15.提婆達多を善知識として…さて、摩訶迦葉尊者をはじめとした仏弟子方の授記などもあるが、今の私ではただの羅列になりそうなので、しばらく先に進み、提婆達多品第十二を見てみようと思う。 ここでは釈尊が過去世において、仏道を求めておられた時、ある仙人が『法華経』を宣説してくれた御因縁を語られる。その仙人こそ、過去世の提婆達多だというのだ。そこのところを少し引用してみよう。 仏、諸の比丘に告げたまはく、「その時の王とはすなはち我が身これなり、時の仙人とは今の提婆達多これない。提婆

        • 法華三部経を読んで 『法華経』その7

          14.長者窮子の譬えに寄せて譬喩品第三における「舎利弗尊者の授記」に感銘を受けた須菩提、摩訶迦旃延、摩訶迦葉、摩訶目犍連の尊者方は、信解品第四において譬喩を説いてその喜びをあらわにする。この譬喩が「長者窮子」の譬えだ。(『法華経』を読むまで、この譬えは釈尊が説かれたものと思っていたが、実は仏弟子方が説かれたものだった。そのことも嬉しい発見の一つ) そして譬喩を説き終わった後、摩訶迦葉尊者が重ねて偈を説かれる。今回はその偈文の中から味わってみようと思う。 …… 仏もまたかくの

        法華三部経を読んで 『法華経』その10

          法華三部経を読んで 『法華経』その6

          12.諸苦の所因譬喩品第三の偈文に、以下の説示がある。 …… 仏の説きたまふ苦諦は、真実にして異なし もし衆生ありて、苦の本を知らず 深く苦の因に著して、しばらくも捨つることあたはず これ等の為のゆえに、方便して道を説きたまふ 諸苦の所因は、貪欲を本と為す もし貪欲を滅すれば、依止するところなし 諸苦を滅尽するを、第三の諦と名づく …… (國譯経一94頁) 時折、法話で苦しみの原因は「欲望(貪欲)」だと聞くことがあり、無明ではないのかなぁと首をかしげていたが、『法華経』の

          法華三部経を読んで 『法華経』その6

          法華三部経を読んで 『法華経』その5

          11.三車火宅、徒然なるままに…譬喩品第三には、続いて有名な「三車火宅」の譬えが説き示されている。その初めの響いた部分を少し引用してみる。 長者、この大火の四面より起こるを見て、すなはち大いに驚怖してこの念をなさく、「我よくこの所焼の門より安隠に出づることを得たりといへども、しかも諸子等は、火宅の内において、嬉戯に楽著して、覚えず知らず驚かず怖ぢず。火来りて身をせめ、苦痛己をせむれども、心厭患せず。出でんと求むる意なし」舎利弗、この長者この思惟をなさく、「我身手に力あり。ま

          法華三部経を読んで 『法華経』その5

          法華三部経を読んで 『法華経』その4

          10.舎利弗尊者の授記譬喩品第三は、舎利弗尊者の以下のような言葉からはじまる。 そのとき、舎利弗、踊躍歓喜して、すなはち起ちて合掌し、尊顔を瞻仰して、仏に白して言さく、『今世尊に従ひたてまつり、この法音を聞きて、心に踊躍を懐き、未曽有なることを得たり。ゆえんはいかん。我昔仏に従ひて、かくの如き法を聞き、諸の菩薩の授記作仏を見しかども、しかも我等はこの事にあづからず。甚だ自ら如来の無量の知見を失へることを感傷せり。世尊、我常に独り山林樹下に処して、もしは坐し、もしは行じて、つ

          法華三部経を読んで 『法華経』その4

          法華三部経を読んで 『法華経』その3

          9.南無仏の心を尋ねて…方便品第二の後半の偈文に、以下のような御文がある。 もし人散乱の心に、塔廟の中に入りて 一たび南無仏と称せし、みなすでに仏道を成ぜり (國譯経一61-62頁) 私にとって、これは再びの驚きの御文だった…。それは、「南無阿弥陀仏」の称名は、浄土宗、浄土真宗の特権のような思い込みがあったからだ。しかし『法華経』において、「南無仏」という一声の称名によって仏道を成ずるという、そのような御示しがあるとは、恥ずかしながら思ってもいなかった…。 また、偈文の続

          法華三部経を読んで 『法華経』その3

          法華三部経を読んで 『法華経』その2

          8.甚深微妙の法方便品第二の偈に、次のような御文があった。 甚深微妙の法は、見ること難く了すべきこと難し 無量億劫において、この諸の道を行じおはりて 道場にして果を成ずることを得て、我すでに悉く知見せり (國譯経一45頁) この御文を拝読すると、私は浄土真宗本願寺派の礼讃文を思い起こした。 無上甚深微妙の法は、百千万劫にもあい遇こと難し。 われ今見聞し受持することを得たり。 願わくは如来の真実義を解したてまつらん。 とても似た表現が使われており、面白い。 まず『法華経

          法華三部経を読んで 『法華経』その2

          法華三部経を読んで 『法華経』その1

          6.妙法蓮華の会座さて、今回から『妙法蓮華経』、いわゆる『法華経』に入っていこうと思う。 さっそく初めの頁を拝見すると、聴衆の中に「阿若憍陳如」の名前があることに目が行った。アーニャコンダンニャ。漢訳で了本際。そう、『大無量寿経』でも初めにその名を連ねておられる方で、釈尊のみ教えを一番初めに聞き開いてくださったお弟子さま。こうして『法華経』の会座にもご参集くださっていたのが、なんだか嬉しい。 その他にも、「摩訶波闍波提(マハー・パジャーパティー)比丘尼」は釈尊の養母であり、

          法華三部経を読んで 『法華経』その1

          法華三部経を読んで 『無量義経』その2

          4.種種に法を説くこと方便力をもってす私が『無量義経』に聞き覚えがあったのは、おそらく説法品第二の以下の御文のためだと思う。 善男子、我道場菩提樹下よりして端坐すること六年にして、阿耨多羅三藐三菩提を成ずることを得たり。仏眼をもって一切の諸法を観ずるに、宣説すべからず。ゆえはいかん。諸の衆生の性欲不同なるをもってす。性欲不同なれば種種に法を説く。種種に法を説くこと方便力をもってす。四十余年にはいまだかつて実を顕はさず。このゆえに衆生は得道差別して、すみやかに無上菩提を成ずる

          法華三部経を読んで 『無量義経』その2

          法華三部経を読んで 『無量義経』その1

          1. はじめに『悲華経』を拝読し、次に『法華経』を手に取ったのは、「授記」に興味が湧いていたからでした。たまたま開いたあるウェブサイトを通じて、『法華経』に仏弟子方への授記が説き述べてあることを知り、それにググっと惹かれました。 (舎利弗尊者は華光如来になる、という事を知り、縁あって浄土真宗 華光会でも御育てを頂く私は、勝手ながら妙な親近感も得たのでした) そんな中、自坊の本棚に『國譯大蔵経』を発見し、そこにちょうど『法華経』も収められていました。開いて見ると『無量義経』か

          法華三部経を読んで 『無量義経』その1

          『悲華経』を読んで その13

          14.凡愚の念仏『悲華経』について、長らく反芻するように味わってきたが、今回でお終いにしよう。 最後に響き、そして今も心に留まる説示に、触れさせて頂こうと思う。 これは釈尊が過去世、とある世界の転輪聖王であった時の話。 慈悲深く、一切布施として、すべてを施していかれる大王であった。 その時、諸人、大王のところに往く。この衆の中において乞兒あり。青光明と字し狗戒を受持す。転輪王に向かいかくのごときの言をなすよう。「大王よ、もしこれ一切施ならば唯、願わくば我にこの閻浮提を施せ

          『悲華経』を読んで その13

          『悲華経』を読んで その12

          13.捨つるところの肉は千須弥山の如し…釈尊は引き続き、過去世の御因縁をお話くださる。 善男子よ、汝、今、あきらかに往昔の因縁を聴けよ。 (国訳経五181頁) と懇々と語られる中、その膨大な布施行(檀波羅蜜)の一端を示される。 本願をもってのゆえに身損減なく、すなわち万歳に至る。閻浮提内の人及び鬼神・飛鳥・禽獣、みな悉く充足す。万歳の中において施すところの目は一恒河沙の如く、施すところの血は四大海水の如く、捨つるところの肉は千須弥山の如く、捨つるところの舌は大鉄囲山の如

          『悲華経』を読んで その12

          『悲華経』を読んで その11

          12.最初の勇健なる精進これまで大悲菩薩(過去世の釈尊)の偉大な本願(五百大願)を頂いてきたが、やがて命終の時を迎えられる。 ……大悲比丘、命終の日、宝蔵如来のあらゆる正法すなわち、其の日において滅尽して余りなし。かの諸の菩薩、本願をもっての故に諸の仏土に生れ、あるいは兜術・人の中・龍の中に生る。あるいは夜叉の中、あるいは阿修羅、種々の畜生の中に生る。 (国訳経五175-176頁) 大悲菩薩の御教化に遇い、菩提心を発した諸々の菩薩方も、それぞれの本願に従い、様々な境涯へと

          『悲華経』を読んで その11

          『悲華経』を読んで その10

          11.無上道の伴 ―大悲菩薩の檀波羅蜜―前回に続く説法にも、興味深い記述があった。 善男子よ、その時、会の中に一梵志あり、名相具足しかくのごとき言をなす。善き丈夫よ、もし来世無量無辺阿僧祇劫において菩薩となるの時、在在生処に我、まさに汝のために常に侍使となるべし。つねに慈心をもってもちゆるところを奉給せむ。一生の時に至り、また、父となるべし。汝、成仏し已らば大檀越とならむ。また、まさに我に無上道の記を授け給ふべし、と。(国訳経五162頁) おそらく、ここで「父となるべし」

          『悲華経』を読んで その10