見出し画像

法華三部経を読んで 『無量義経』その2

4.種種に法を説くこと方便力をもってす

私が『無量義経』に聞き覚えがあったのは、おそらく説法品第二の以下の御文のためだと思う。

善男子、我道場菩提樹下よりして端坐すること六年にして、阿耨多羅三藐三菩提を成ずることを得たり。仏眼をもって一切の諸法を観ずるに、宣説すべからず。ゆえはいかん。諸の衆生の性欲不同なるをもってす。性欲不同なれば種種に法を説く。種種に法を説くこと方便力をもってす。四十余年にはいまだかつて実を顕はさず。このゆえに衆生は得道差別して、すみやかに無上菩提を成ずることを得ず。
(國譯経一10頁)

上記の中、「四十余年にはいまだかつて実を顕はさず」、この御文をもって『無量義経』、ひいては『法華経』以外のお経を排斥する悲しい御縁を、間接的に知っていたのだ…。

しかしながら、ここを拝読するにつけ、私は釈尊が衆生成熟を四十余年にもわたり待ってくださっていたこと、そのことの温もりを感じる。お悟りを開かれた後、すぐに御説法へと赴かれたのではなく、「諸の衆生の性欲不同」をよくよく観察し、そこを一つ一つ耕すように、応病与薬、対機説法を展開してくださったのだ。
しかも驚くべきことに、その対機説法一つ一つに一切の齟齬や矛盾がない。どんなに相手に合わせた説きぶりであろうと、その御説法一つ一つが連綿と一本の糸(スートラ)で美しく繋がっているのだ。

私はたまたま、浄土真宗を通してお念仏を喜ぶ身にさせて頂けたのだが、原始仏典を読ませて頂いても不思議と喜びが溢れてくるのは、そこを貫く真があるからでろうと、ホクホク喜ばせて頂いています。如来さまの方便力の偉大さを思います。

南無阿弥陀仏


5.よく諸々の凡夫をして…

十功徳品第三に、以下のような説示がある。

善男子、かくの如き無上大乗無量義経は極めて大威神の力あり。尊にして過上なし。よく諸の凡夫をしてみな聖果を成じ、永く生死を離れて而して自在なることを得しむ。このゆえにこの経を無量義と名づく。よく一切衆生をして、凡夫地において諸の菩薩の無量の道芽を生起せしめ、功徳の樹をして蔚茂扶疎増長せしむ。このゆえにこの経を十不可思議功徳力と名づく。
(國譯経一21頁)

私はここに「凡夫」と出てくることに驚いた。恥ずかしながら、救いの対象を凡夫としているのは浄土教で、聖道諸宗の経典は立派な聖者方を対象としているのだと思い込んでいたのだ…
きちんと原典を拝読する意味を、改めて感じました。この『無量義経』も、救いの目当てに「凡夫よ」と呼んでくださっているのでした。
お陰様でまた一つ、恥ずかしい思い込みの殻を、取り除いていただけた説示でした。

南無阿弥陀仏

さて、『無量義経』は短いこともあり、ここで終わり。
次回からは、いよいよ『法華経』に入っていきます。

のんびりつづく

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?