『悲華経』を読んで その12

13.捨つるところの肉は千須弥山の如し…

釈尊は引き続き、過去世の御因縁をお話くださる。

善男子よ、汝、今、あきらかに往昔の因縁を聴けよ。
(国訳経五181頁)

と懇々と語られる中、その膨大な布施行(檀波羅蜜)の一端を示される。

本願をもってのゆえに身損減なく、すなわち万歳に至る。閻浮提内の人及び鬼神・飛鳥・禽獣、みな悉く充足す。万歳の中において施すところの目は一恒河沙の如く、施すところの血は四大海水の如く、捨つるところの肉は千須弥山の如く、捨つるところの舌は大鉄囲山の如く、捨つるところの耳は純陀羅山の如く、捨つるところの鼻は毘富羅山の如く、捨つるところの歯は耆闍崛山の如し。捨つるところの身皮は猶し三千大千世界のあらゆる地等の如しと。
(国訳経五183頁)

南無阿弥陀仏

以前の記事でも何度か触れてきたが、法然聖人の『無量寿経釈』では法蔵菩薩の兆載永劫の御修行の具体的な中身として、『悲華経』の布施行を引用しておられる。
そして、『無量寿経釈』にある記述にかなり類似するのが、私が拝読した中ではこの箇所だった。
おそらく法然聖人は、法蔵菩薩(阿弥陀如来)の御苦労を偲ばれた時、この『悲華経』の御文を想起されたのだろう。
一念一無上。
ただ一声の称名(南無阿弥陀仏)における無上の功徳、無量寿の具体相として、今・ここの我が身へと至り届く御文でもあるのだ…。

南無阿弥陀仏

また蓮如上人が愛読された『安心決定鈔』には、『法華経』「寿量品」を味わわれた以下のような記述がある。

「三千大千世界に、芥子ばかりも釈尊の身命をすてたまはぬところはなし」(法華経・意)。みなこれ他力を信ぜざるわれらに信心をおこさしめんと、かはりて難行苦行して縁をむすび、功をかさねたまひしなり。この広大の御こころざしをしらざることを、おほきにはぢはづべしといふなり。
(註釈版1385頁)

釈尊の身を捨て果てた御苦労は、ただただ、今・ここに生きる私たちに、他力(南無阿弥陀仏)を信ぜしめんがための、その縁を何としても結ぼうとの難行苦行であった…。
その大きな御こころざしを知らなかったことを、おおきに恥ずべしと…。

これは釈尊一代のご苦労を、「南無阿弥陀仏」一つに帰結させる真宗独自の受け取りなのかもしれない…。
しかしながら、私はこうして『悲華経』を拝読するにつけても、親鸞聖人が「大乗の至極」と讃えられた南無阿弥陀仏が、新鮮に、生き生きと輝きだすのを感じる。
そこにただ惚れ惚れと、この身に届き、生きて蠢く仏法を、自由気ままに味わわさせて頂いています。

南無阿弥陀仏

もう少し、つづく…

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?