『悲華経』を読んで その11

12.最初の勇健なる精進

これまで大悲菩薩(過去世の釈尊)の偉大な本願(五百大願)を頂いてきたが、やがて命終の時を迎えられる。

……大悲比丘、命終の日、宝蔵如来のあらゆる正法すなわち、其の日において滅尽して余りなし。かの諸の菩薩、本願をもっての故に諸の仏土に生れ、あるいは兜術・人の中・龍の中に生る。あるいは夜叉の中、あるいは阿修羅、種々の畜生の中に生る。
(国訳経五175-176頁)

大悲菩薩の御教化に遇い、菩提心を発した諸々の菩薩方も、それぞれの本願に従い、様々な境涯へと旅立って(生れて)いかれた。
そんな中、大悲菩薩御自身のその後の歩みが、ここから説き述べられていく。

善男子よ、大悲比丘、命終の後、本願をもっての故に南方ここを去ること十千の仏土にして仏世界あり、名づけて歓喜という。かの中の人民寿八十歳、一切の諸の不善根を集聚し、憙みて殺害をなす。諸悪に安住し諸の衆生において慈悲の心なし。父母に孝ならず、乃至未来の世を畏れず。大悲比丘、本願をもっての故にかの世界の旃陀羅の家に生る。……
(国訳経五176頁)

大悲菩薩はさっそく、その本願(五濁悪時悪世界において成道する)に従い、逆悪の世に生れていかれたのだった。
旃陀羅は差別用語でもあるが、ともかく今は、悪世界でもさらに身分的に最下層の家に生れられたという意として、そのまま頂いておきたい。
そして、そこの生れられた大悲比丘は、強力旃陀羅として周りの人々から称賛されていくこととなり、ついには功徳力王という転輪聖王として、無量の衆生に善根を積ませるような偉大な王さまに成っていかれるのだ。

これだけでも、相当な御苦労であり、偉大な御功績であったと思われるが、大悲菩薩の無上正真道、勇健なる精進はここから始まる。

その時、一尼乾子あり、名づけて灰音という。王(大悲菩薩)のみもとにいたりて、この言をなす。「王、今、なすところの種々の大施をもって無上正真の道を求む。我、今、もちゆるところ、王よ、まさに我に与えて満足を得せしむべし。王、来世においてまさに法灯を熾念すべし」と。時に、王、問うて言く、「おんみ、何をかもちゆるところぞ」と。彼の人、答えて言く、「我、呪術を誦持し、かの阿修羅と闘うことを得、その破壊を怖れて自ら勝利を得んと欲す。このゆえに王にかくのごとき事をもうすや。もちうべきところの者は未死の人の皮と眼となり」と。その時、大王、この語を聞きおわり、かくのごとく思惟するよう、「我、今、この無量の勢力ある転輪聖王を得おわって無量の衆生を安止するを得。十善および三乗の中に住す。また、無量無辺の大施をなす。この善知識、我が不堅牢の身をもって堅牢の身にかえしめんと欲す」と。その時、大王、すなわち、この言をなす。「汝、今、歓喜の心を生ずべし。我、今、この凡夫の肉眼をもって汝に布施せん。この縁をもってのゆえに我をして来世清浄の慧眼を得せしめよ。歓喜の心をもって皮を剥ぎ汝に施さん。また、この縁をもって我、阿耨多羅三藐三菩提を成じおわり金色の身を得せしめよ」と。……
(国訳経五177頁)

功徳力王の前に現れた灰音となのる尼乾子(六師外道の一つ)。彼が王に要求したのは「未死の人の皮と眼」。私としては、思わずギョッとする内容だった。
しかし王はしばらく考えられた後、喜んでそれを布施されていく。そして来世における智慧の眼と、成道後の金色の身体をそれによって得ようというのだ。

阿弥陀如来の四十八願には、第三願「悉皆金色の願」という誓願がある。浄土に生まれたすべてのものの身体を金色に成そうという願いだ。私は恥ずかしながら、今までこの願いを聞きながら「へぇ~」というくらいの感想しかもちえなかった。しかしこの大悲菩薩の徳行を拝読し、その誓願の基になされた御苦労にギョッとせざるをえなかった。因果応報。仏道にはその哲理が厳然と存在する。南無阿弥陀仏の中には、法蔵菩薩の無限に等しい布施行が内包されている。無量のいのちの文字通り、それが南無阿弥陀仏なのだ…

南無阿弥陀仏

ここからは、より具体的な記述となっているが、そのまま記載させて頂き、大悲菩薩の歩み、ひいては南無阿弥陀仏のおいわれを、静かに偲ばせて頂こうと思う。

……善男子よ、その時、功徳力王、その右手をもって二つの目をえぐり取りて尼乾子に施す。血、流れて面を汚す。而してこの言をなす。「諸天・龍神・乾闥婆・阿修羅・迦楼羅・緊那羅・摩睺羅伽・人・非人等もしくは虚空に在るもの、もしくは地に在るもの悉く我が言を聴けよ。我、今、施すところ、皆、無上菩薩の道、白浄の涅槃のためなり。諸の衆生を四流の水より度し安止して涅槃に住せしめん」と。また、この言をなす。「もし我、必定して阿耨多羅三藐三菩提を成ぜば、この事をなすと雖も、あらゆる命根断壊すべからず、正命を失わず、悔を生ずべからず。尼乾子をして所作の呪術をして、すなわち成就を得せしめん」と。また、この言をなす。「汝、今、来りて我が皮を剥ぎ取るべし」と。善男子よ、時に、尼乾子、すなわち、利刀を持ち王の皮を剥ぎ取る。そののち、七日にして所作の呪術悉く成就を得たり。
その時、大王、七日の中において、その命いまだ終らず、正念を失わず。この苦を受くと雖も乃至一念も悔心を生ぜず。善男子よ、汝、今、まさに知るべし。そのときの大悲菩薩とは、あに異人ならんや、この観をなすことなかれ。すなわち、我が身(釈尊)これなり。過去世に宝蔵仏のみもとにおいて初めて阿耨多羅三藐三菩提を発し、初めて発心しおわり、無量無辺の衆生を阿耨多羅三藐三菩提に勧化す。善男子よ、これ、我が最初の勇健なる精進なり。
(国訳経五177-178頁)

南無阿弥陀仏

あと少し、つづく

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