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法華三部経を読んで 『法華経』その8

15.提婆達多を善知識として…

さて、摩訶迦葉尊者をはじめとした仏弟子方の授記などもあるが、今の私ではただの羅列になりそうなので、しばらく先に進み、提婆達多品第十二を見てみようと思う。
ここでは釈尊が過去世において、仏道を求めておられた時、ある仙人が『法華経』を宣説してくれた御因縁を語られる。その仙人こそ、過去世の提婆達多だというのだ。そこのところを少し引用してみよう。

仏、諸の比丘に告げたまはく、「その時の王とはすなはち我が身これなり、時の仙人とは今の提婆達多これない。提婆達多の善知識によるがゆえに、我をして、六波羅蜜、慈悲喜捨、三十二相、八十種好、紫磨金色、十力、四無所畏、四摂法、十八不共、神通道力を具足せしめたり。等正覚を成じて、広く衆生を度すること、みな提婆達多の善知識に因るがゆえなり。」
(國譯経一197頁)

釈尊は、提婆達多を善知識として、今の成道があることを述べられる。これもまさに、仏法不思議の御因縁としか言いようがない…。そしてその後、提婆達多の授記を、その場に居合わせた諸菩薩および天人四衆に告げられるのだった。

ちなみに、親鸞聖人は『浄土和讃』の中で、提婆達多のことを「提婆尊者(註釈版565頁)」として列記されている。王舎城の悲劇、そして阿闍世王の無根の信。聖人はここに、御自身の身に発った他力信心を重ねて味わっておられる。そのことを鑑みても、その御因縁の大きな立役者である悪逆の提婆達多も、権化の仁(還相の菩薩)の尊者として、尊ばれているのであろう。

南無阿弥陀仏


16.三千大千世界に、芥子ばかりも釈尊の身命をすてたまはぬところはなし

提婆達多品第十二では、続いて娑竭羅龍王の女(むすめ)が速やかに成仏する相をみせ、女人成仏の不思議を目の当たりにする一段があるのだが、その中の以下の説示に着目したい。

智積菩薩の言はく「我、釈迦如来を見たてまつるに、無量劫において、難行苦行し、功を積み徳を累ねて、菩提の道を求むること、未だかつて止息したまはず、三千大千世界を観るに、乃至芥子の如きばかりも、これ菩薩にして身命を捨てたまふ処にあらざることあることなし。衆生の為のゆえなり。……
(國譯経一200頁)

この説示を受けて、蓮如上人が尊ばれた『安心決定鈔』には次のような一段がある。

「衆生往生せずは仏に成らじ」(大経・上意)と誓ひたまひし法蔵比丘の、十劫にすでに成仏したまへり。仏体よりはすでに成じたまひたりける往生を、つたなく今日までしらずしてむなしく流転しけるなり。かるがゆゑに『般舟讃』には、「おほきにすべからく慚愧すべし。釈迦如来はまことにこれ慈悲の父母なり」といへり。「慚愧」の二字をば、天にはぢ人にはづとも釈し、自にはぢ他にはづとも釈せり。なにごとをおほきにはづべしといふぞといふに、弥陀は兆載永劫のあひだ無善の凡夫にかはりて願行をはげまし、釈尊は五百塵点劫のむかしより八千遍まで世に出でて、かかる不思議の誓願をわれらにしらせんとしたまふを、いままできかざることをはづべし。機より成ずる大小乗の行ならば、法は妙なれども、機がおよばねばちからなしといふこともありぬべし。いまの他力の願行は、行は仏体にはげみて功を無善のわれらにゆづりて、謗法・闡提の機、法滅百歳の機まで成ぜずといふことなき功徳なり。このことわりを慇懃に告げたまふことを信ぜず、しらざることをおほきにはづべしといふなり。「三千大千世界に、芥子ばかりも釈尊の身命をすてたまはぬところはなし」(法華経・意)。みなこれ他力を信ぜざるわれらに信心をおこさしめんと、かはりて難行苦行して縁をむすび、功をかさねたまひしなり。この広大の御こころざしをしらざることを、おほきにはぢはづべしといふなり。このこころをあらはさんとて、「種々の方便をもつて、われらが無上の信心を発起す」(般舟讃 七一五)と釈せり。無上の信心といふは、他力の三信なり。
(註釈版1384~1386頁)

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏…

この御文を拝読するにつけ、お念仏が口をついて出てくださる。
釈迦弥陀二尊の懇ろな御苦労を偲びつつ、この引用元に出遇えたことに、殊の外、喜びを感じさせてもらっています。

南無阿弥陀仏

つづく

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