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法華三部経を読んで 『法華経』その10

18.如来寿量品の驚きと、今の私なりの落としどころ

前回の記事の冒頭でも少し触れたが、私は如来寿量品第十六の説示を改めて拝読し、非常な衝撃を受けたのだった。少し長くなるが、原文と現代意訳でその部分をまずは見てみよう。

そのとき、仏、諸の菩薩および一切の大衆に告げたまはく、「諸の善男子、汝等まさに如来の誠諦の語を信解すべし。」また大衆に告げたまはく、「汝等まさに如来の誠諦の語を信解すべし。」またまた諸の大衆に告げたまはく、「汝等まさに如来の誠諦の語を信解すべし。」
このとき、菩薩大衆、弥勒を首となして、合掌して仏にもうしてもうさく、「世尊、ただ願はくばこれを説きたまへ。我等まさに仏の語を信受したてまつるべし。」かくの如く三たびもうしおはりてまたもおさく、「ただ願はくばこれを説きたまへ。我等まさに仏の語を信受したてまつるべし。」
その時、世尊、諸の菩薩の三たび請じて止まざることを知ろしめして、これに告げて言はく、「汝等諦かに聴け、如来の秘密神通の力を。一切世間の天人、および阿修羅は、みな今の釈迦牟尼仏、釈氏の宮を出でて、迦耶城を去ること遠からず、道場に坐して阿耨多羅三藐三菩提を得たりとおもへり。しかるに善男子、我実に成仏してよりこのかた、無量無辺百千万億那由他劫なり。譬へば五百千万億那由他阿僧祇の国を過ぎてすなはち一塵をくだし、かくの如き東に行きてこの微塵を尽くさんが如し。もろもろの善男子、意においていかん。この諸の世界は思惟し、校計してその数を知ることを得べしやいなや。」
弥勒菩薩等、ともに仏にもうしてもうさく、「世尊、この諸の世界は、無量無辺にして、算数の知る所にあらず。また心力のおよぶ所にあらず。一切の声聞、辟支仏、無漏智をもっても、思惟してその限数を知ることあたはず。我等阿惟越致地に住すれども、この事の中においては、また達せざる所なり。世尊、かくの如き諸の世界は、無量無辺なり。」
その時、仏、大菩薩衆に告げたまはく、「諸の善男子、今まさに分明に汝等に宣語すべし。この諸の世界のもしは微塵をおき、およびおかざるものをことごとくもって塵となして、一塵を一劫とせん。我成仏してよりこのかた、またこれに過ぎたること百千万億那由他阿僧祇劫なり。これよりこのかた、我常にこの娑婆世界に在りて説法し教化す。また余処の百千万億那由他阿僧祇の国においても衆生を導利す。諸の善男子、この中間において我燃灯仏等と説き、またまたそれ涅槃に入ると言ひき、かくの如きはみな方便をもって分別せしなり。諸の善男子、もし衆生ありて、我がもとに来至するには、我、仏眼をもってその信等の諸根の利鈍を観じて、まさに度すべき所に随ひて、処処に自ずから名字の不同年紀の大小を説き、またまた現じてまさに涅槃に入るべしと言ひ、また種種の方便をもって微妙の法を説きて、よく衆生をして歓喜の心を発さしめき。
諸の善男子、如来は諸の衆生の小法を楽へる徳薄垢重の者を見て、この人の為に、我わかくして出家し、阿耨多羅三藐三菩提を得たりと説く。しかるに我実に成仏してよりこのかた、久遠なることかくのごとし。ただ方便をもって衆生を教化して仏道に入らしめんとしてかくの如き説をなす。諸の善男子、如来の演ぶる所の経典はみな衆生を度脱せんが為なり。あるひは己身を説き、あるひは他身を説き、あるひは己身を示し、あるひは他身を示し、あるひは己事を示し、あるひは他事を示す。諸の言説する所は、みな実にして虚しからず。ゆえんはいかん。如来は如実に三界の相を知見するに、生死のもしは退もしは出あることなし。また在世および滅度の者なし。実にあらず虚にあらず。如にあらず異にあらず。三界の三界を見るが如くならず。かくの如きの事、如来明らかに見て錯謬あることなし。諸の衆生の、種種の性、種種の欲、種種の行、種種の憶想分別あるをもってのゆえに、諸の善根を生ぜしめんと欲して、若干の因縁、譬喩、言辞をもって種種に法を説く。所作の仏事、いまだかつてしばらくも廃せず。かくの如く我成仏してよりこのかた、はなはだ大いに久遠なり。寿命無量阿僧祇劫なり。常住にして滅せず。諸の善男子、我もと菩薩の道を行じて成ぜし所の寿命、今なほいまだ尽きず。また上の数に倍せり。しかるに今実の滅度にあらざれども、しかもすなはち唱へて「常に滅度を取るべし」と言ふ。如来、この方便をもって衆生を教化す。ゆえんはいかん。もし仏久しく世に住せば、薄徳の人は善根を種えず、貧窮下賤にして五欲に貪著し、憶想妄見の網の中に入りなん。もし如来は常に在りて滅せざるを見ば、すなはち憍咨を起して、厭怠を懐き、難遭の想、恭敬の心を生ずることあたはじ。このゆえに如来方便をもって説く、「比丘まさに知るべし、諸仏の出世には値遇すべきこと難し」と。ゆえんはいかん。諸の薄徳の人は、無量百千万億劫を過ぎて、あるひは仏を見ることあり。あるひは見ざる者あり。この事をもってのゆえに、我この言をなす、「諸の比丘、如来は見ることを得べきこと難し」と。この衆生等、かくの如き語を聞きては、必ずまさに難遭の想を生じ、心に恋慕を懐き、仏を渇仰して、すなはち善根を種うべし。このゆえに如来実に滅せずといへどもしかも滅度すと言ふ。また善男子、諸仏如来は法みなかくの如し。衆生を度せんが為なればみな実にして虚しからず。
(國譯経一235~238頁)

続いて、ここに対応する現代語意訳を引用する。

その時、釈尊は弥勒菩薩とともにいたすべての大衆に向かって言った。
「いっさいの生きとし生けるものよ、よく聞きなさい。わたしの真実のことばを聞きなさい」
居並ぶ大衆は音もなく静まり返り、釈尊の次のことばを待った。
「いっさいの生きとし生けるものよ、これか言うわたしのことばを信じなさい」
釈尊は三たび言った。
「わたしの真実のことばを聞き、そして信じるのです」
釈尊が三度も繰り返して言うのを聞いて、すべての人々は次に語られる話の重要さを感じた。そして、弥勒菩薩を先頭にして釈尊に合掌し、緊張に声を震わせながらいっせいに言った。
「世尊よ、どうかお説きください。われら一同、仏のことばを信じて疑いません」
おびただしい数の大衆が発したその声は、霊鷲山とそれに連なる峰々にとどろき、はるかな世界の果てにまで響き渡った。そして、彼らもまた同じことばを三度繰り返したのである。
彼らの声がやむと、釈尊はそれを待っていたかのように口を開いた。
「それではしっかりと聞きなさい。わたしはこれから、仏の秘密を明かしましょう。そして仏の神通力について話しましょう」
人々は一語も聞き漏らすまいと、身じろぎもせずに次のことばを待った。
「神々はもちろん、人間や魔界のものたちに至るまで、このわたしのことを以前は釈迦族の王子であり、城を出て迦耶城の近くの菩提樹の下でこのうえない悟りを得たと考えています。しかし、真実はそうではないのです」
「ええっ……」
あまりに意外な釈尊のことばに、霊鷲山上にはどよめきが起こった。
「わたしがこのうえない悟りを得て仏になったのは、実はすでに遠い昔のことで、数えることもことばで言い表すこともできないほどはるかな過去のことなのです」
人々のどよめきは渦を巻き、峰の木々を揺るがしていった。しかし、釈尊の次のことばがそのどよめきを静めた。
「たとえば、霊鷲山のあるこの大地を太陽や月が巡っています。これがひとつの宇宙ですが、それを千倍し、さらに千倍し、さらにまた千倍し、それをさらに五百万億倍したほどの大宇宙があったとしましょう。そして、その広大な宇宙の大地をすりつぶして粉のような粒にしたとします。ある男がこのひと粒を手にして東へ向かい、つぶしたのと同じ広さの大宇宙を越えてその先にこれを捨てたとしましょう。この方法で、すりつぶした宇宙の粒をすべて捨て終わるのにいったいどれほどの時間がかかると思いますか。そう問われて答えられる者が、この中におりますか」
すると、弥勒菩薩が言った。
「世尊よ、それは答えられるものではありません。そのように広大な宇宙の大地をすりつぶした粒は無数というよりほかはなく、ましてそれを捨てにいくのにかかる時間などは、計算することも推し量ることもできるものではありません」
いっせいにうなずく大衆を見渡して、釈尊はことばを続けた。
「そのとおりです。生きとし生けるものたちよ、いいですか、よくお聞きなさい。その男が大宇宙をすりつぶした粒を捨てるのにかかる時間がどれほど長いとしても、それはわたしがこのうえない悟りを得てから今日まで経過した年月には及ばないのです。それほどはるかな昔から、わたしはこの世界にいて人々を教え導いてきたのです。そして、この娑婆世界以外の世界にも出かけ、生きとし生けるものたちのために教えを説いてきたのです」
霊鷲山の山頂の大衆は、驚きと感動で微妙に震えていた。
「ある時代にはわたしは燃灯仏のことを説き、その入滅を語ってもみました。またある時はほかの仏の誕生を説き、その仏が人々を教化した後に世を去ったとも言って聞かせました。また、わたしは王城に生まれて若くして出家し、今の世で菩提樹の下で悟りを開いたとも説きました。しかし、それらはすべて方便だったのです。久遠の昔から世にいたにもかかわらず、そうすることが人々の性格や能力にとって適していると判断したうえでの方便だったのです」
大衆は息を殺し、物音も立てずに釈尊の話に耳を傾けた。
「しかも、わたしの寿命はまだ半分にも達していないのです。わたしの寿命が尽きるまでには、まだ数えることもたとえることもできないほどの年月が残っているのです」
釈尊は大衆を見渡し、息をついてからことばを続けた。
「では、なぜわたしはそのような方便を用いてきたのでしょう。それは、もしわたしがそのように長い間この世にとどまっていると知れば、衆生はいつでも仏を見られると思って善根を作らず、福徳を離れ、欲に執着して苦の世界を抜け出そうとしなくなるからです。……
(仏説大系28、201~204頁)

さて、改めて読んでみても私にとっては驚かされる内容だった。はじめは「久遠実成阿弥陀仏」の原点がここにあるんだなぁ、くらいのことでホクホクと読んでいたのだが、「諸の善男子、この中間において我燃灯仏等と説き、またまたそれ涅槃に入ると言ひき、かくの如きはみな方便をもって分別せしなり」の説示は衝撃的だった…。
私はこれまで、『大経』の五十三仏の初めに錠光如来(燃灯仏)の名前がみえることからも、燃灯仏授記を殊の外有り難く味わっていた。また釈尊の成道、いわゆる八相化義にいたっては猶の事、一つ一つに大切な御心を感じていた。しかし、それらが実はみな方便だった…、そう告白されると言葉を失ってしまう感があったのだ……

しかしながら、もう一方で響いていた言葉、「諸の言説する所は、みな実にして虚しからず」、「また善男子、諸仏如来は法みなかくの如し。衆生を度せんが為なればみな実にして虚しからず」。これらの説示に今一度、心を寄せてみるならば、それは私へと法が届くための御方便であったかと思い当たる。方便と聞くと、何か虚しさを感じてしまう私がいるのだが、釈尊は逆に「みな実にして虚しからず」との仰せだ。その仰せに、よくよく心を傾けてみたい。それは、愚かな私を仏道へと歩ませるために必要不可欠な方便であり、御苦労でもあったのだろう。

さて、ここで親鸞聖人がここをどのように受けておられるかを、『浄土和讃』「諸経讃」を通してみてみよう。

無明の大夜をあはれみて
 法身の光輪きはもなく
 無礙光仏としめしてぞ
 安養界に影現する

久遠実成阿弥陀仏
 五濁の凡愚をあはれみて
 釈迦牟尼仏としめしてぞ
 迦耶城には応現する
(註釈版572頁)

「諸経讃」の巻頭二句は正しく『法華経』寿量品第十六を受けての御和讃であろう。ここのところ、増井悟朗先生の通釈には以下のようにあった。

深夜の闇にとざされたように、長い迷いに沈む衆生をあわれとおぼしめされた久遠の古仏たる阿弥陀仏は、もとより心も言葉も及ばぬ法性のさとりを開かれて、そのみ光は、虚空にみちたもう法身仏であるが、ここに五兆の願行をおこして、ふたたび尽十方無碍光如来という報身仏として、十劫の昔より、西方の安養浄土に形をあらわして、今現におわしますのである(『法華経』『大日経』等による)。
久遠仏としての法身の阿弥陀仏は、衆生救済のために十劫の昔に報身仏となられたばかりではない。この地上、インドにおいて、応身仏たる釈迦牟尼如来として、お出ましくださったのである。釈尊は、実に久遠実成の阿弥陀仏が、われらを救わんがための大悲の顕現であるから、釈尊ご一代の説法はすべて弥陀の本願を説くよりないことが知らされる。同時に、十方の諸仏方も、釈尊が久遠の古仏の応現であると同じく、それぞれの国において、弥陀の本願を説いておられる。華光出仏の荘厳なおこころが味わえる。
(増井悟朗『『三帖和讃』講讃』上122-123頁)

また、『無量寿経』の証信序に八相化義が示されていることを、ここと合わせて味わうととても面白い。釈尊はじめ、諸仏方も含めて、還相回向のおはたらきとして頂くこともできる気がする。いづれにしても、真実そのものが凡夫でも知覚し得る相まで降り立って、御教化をしてくださっているのだ。

さて、甚だ稚拙なまとめになっている感じもするのだが、今の私にはこのあたりが限界のような気もするので、一度ここで止めておこうと思う。
しかしながら、『法華経』はじめ諸経に触れさせてもらえたお陰で、自分の中の仏教観は随分広がった感じはしている。この味わいが、今後どのように繋がっていくかは未知数だが、この新型コロナの御縁に、こうして時間をとって拝読し、振り返りながら気づいていけたこと、これもまた不思議な御縁でした。
有り難うございました。

南無阿弥陀仏

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